木曜荘

ものかきの日記

読書覚書

人生はたぶん、回収されない伏線だらけでできていて、次の頁をめくっても、きっとそれは回収されないのだろうと思う

物語の展開の面白さをただ楽しむならば
マルケスの『百年の孤独』は今年で一番楽しませてくれた
けれどそこに、殴られるような衝撃はなかった
それはたとえば明石海人の三十一文字にかなわないのだった

言葉は積み上げるほどに均衡をあやうくしていく
ひずみをうみ、やがてそこから崩落することもあるだろう

物語の大前提としてある「嘘」
嘘からはじまり、本当のことを伝えるための大いなる迂回
けれどそれが、その嘘が、言葉のすきまから、ひずみから覗くようでは、ぼくは耐えることができないのだろうと思う
これはそう、好みの話


記憶力がわるく、それをそれでよしとしているぼくは、川上未映子の言葉を堪能しながらも、その物語をほとんど覚えていない
ただ、ここちよい文章だったと覚えているし、それらはきっとぼくにすでに吸収されていると思う


ルシア・ベルリンも読んだらしいけれど、思い出せるのはコインランドリーのひとつの風景
文章というのは言葉で描く絵だと思っているぼくには、そういう意味ではこの作品は肌に合ったものだったのかもしれない


新しく読んだ物語はすべて忘れてしまった
いや、それだって表面上のことでしかない
読むのは食べることに似ていて
骨や肉になったり、ならずに棄てられたりする言葉たちがある

なにを読むかはなにを食べるかに似ていて
栄養をまんべんなく摂ろうとこころがけたところで、アレルギーがあるかもしれない
それだって食べてみなければわからない
好きな味、嫌いな味、でもくせになる味
いろんな味がある
味はどうでも必須の栄養もある
体がもとめてしかたないもの
ぼくにとっては
石垣りんさんの詩や
明石海人の歌や
薄田泣菫の随筆だったりする

折に触れてなんども読み返すものと
新しく読んでいくものとのあいだに
おぼろげではあるものの
自分の筆を見出だしはじめているような気もする


それもやっぱり
書いて、まず書いて
それから読んでみなければわからない
自分の作る料理がいつでも最高の味と栄養であるとは限らないから
なんども味見をしながら、でも味に寄りすぎず
作りたいものを作らなくてはおもしろくない

だから、新しい味を常にためしつづけることは
やめてはいけないのだろう
なんでも大量の砂糖や辛子や油でごまかそうというのなら、そんなことはどうだっていいことかもしれないけれど…