木曜荘

ものかきの日記

書いて話して

今日も仕事はおやすみ。

休みの日にずっと家にいたりすると、笑われたりあまつさえ馬鹿にされたりすることもあったけど、何を言ってるのさ、こっちは家にいられる喜びを噛みしめるようにして過ごしているんだ、と思っていたし、今日もそんなわけで読んだり書いたりするつもり。

なかにはまるで外出しないのは罪悪のように言う極端な人もあったけど、とっくに過去の人だし、いいんだ、たまに思い出してすこしだけいらっとするけど、そのあと笑えるし。人には人の喜びがそれぞれにあるのだから。

ぼくの場合、昔から人の集まるところが苦手で、頑張ってる姿を見られたくないようなところもあるので、トレーニングもジムは使わずに自宅でできるように勉強してきたし、用がなければ外出したくない性格なので(ぶらっと散歩には行くけど)これでいいのだ。

今日はじゃがいもやら鶏肉やらを朝一番に買いに出かけて、風や空とすこし触れあった。また会いたくなれば扉を開く。ぼくはともだちにいつでも会える。

 

ネット上にともだちはいないし、リアルにもたぶんいない。向こうがぼくをどう思ってるかなんていつだって誰にたいしてだって永遠に謎だし、そんなの天気みたいにころころかわるでしょう。だからもうずっとずっとずいぶんまえから、ぼくはともだちを必要としていない。

でも仲間はいる。文章、絵画、書籍、そうしたものに携わっている仲間。先生と思ってる人、創作への姿勢の尊敬できる人、自分とは異次元ほどかけ離れた表現をする人、手を伸ばしたら届きそうなほど近くに感じる人、兄弟姉妹のように似ていると感じる人、さまざまだ。

曳舟の例の場所でたまにあって、お互いの孤独を確認する。創作されたものを鑑賞する。あるいは画廊で、あるいはネットで、たまにあう、言葉をかわす。そうした関係が好ましく、ここちよく、インターネット時代の恩恵をあますところなく享受しているという感じがして、珍しく「時代」なんてものを感じたりするときさえある。

…この時代でよかった、だなんて、いまの時代に言える人は多くないとかいう人けっこういるけど、ぼくはよかったと思える。座敷牢にとじこめられずに精神病院に通っているし、空襲におびえてれば創作なんてできないし、千里の距離を一瞬でつなぐ回線がはりめぐらされていつでも瞬時に飛んでいけるし、発信できるし、十万円もあれば書籍もかんたんにつくれるし、いやな時代だと言ってしまうのは簡単だし、なんか頭良さそうにみえる(?)のかもしれないけれど、ぼくは満足しているし、ありがたいことだと思っている。

閑話休題

会えない間、言葉をかわさない間も、お互いの発信する言葉なり表現なりを垣間見ることができるのは、この時代の最大の恵みだと思っている。ぼくはいつも仲間を思い、祈っている。さいわいであるように、あたらしい作品をうみだせるように、あなたとあなたの大切な人が息災であるように、そしてまた言葉をかわせる日がくるように、それがぼくにとっての仲間で、とてもとても大切なもの。

仕事もやすみでこうして家にいると、そうした思いの募るのがわかる。

孤独の苦味と、期待の甘み、あるいはその逆、ともあれ、ぼくらはそれぞれ生きている。