木曜荘

ものかきの日記

詩について

詩を書きたいと思わないわけではないけど、ぼくの書く詩は、いまの文章界隈において詩として受け入れられないとわかっているから、「詩を書きたいとは思わない」。

ではどういうものが詩なのかというと、わからない。

詩的な文章というものも、いまの商業作家の作品から拾い上げることはとてもむつかしい。むしろネット上にぼくは多くそれらを見つける。それはそれでいい。創作と出版は別物だろう。あとは過去の詩を繰り返し読む。そのために本はある。そのときだけ、出版という商売に感謝する。

 

ぼくは石垣りんさんのような、質素で、核のある、飾りのない、やさしい文章を書きたい。そっくり真似するようなことはしない、ぼくなりに書くことは大前提だけど、迷ったらりんさんの方角を見る。ぼくにとって灯台のようなものかもしれない。

いや、あるいは先を歩いていったりんさんの足跡のようなものを探すのかもしれない。

そのとき、地面を照らすためにぼくがかかげるカンテラ、これがたぶんぼくの詩なのだ。

 

りんさんの詩に、明石海人の短歌、薄田泣菫の随筆、そして恩師T先生の小説…

いずれも美しく、苦しく、生々しく躍動する、詩だ。

絵画ならば、長野順子先生の銅版画、あれほど密度の濃い詩情は、文章界隈でもなかなか感じることはできないものばかりだし、先日記事にした木版画家のOさんの作品は、いつでもぼくを殴りつけてくる強烈な詩をはらんでいる。

ネットの作品でいえば、雨伽詩音さんの作品は、とてつもないすごみのあるしかし妖艶でどこか恍惚とする美しい詩ばかりで、読めば文章から血を吸い取られたような虚脱感と悦びを得る。それから自由ということでいえば、ゆきひらさぎりさんの誰にも似ていないあのことばたちにかなう作品は今も昔も(ぼくの知る範囲は狭いだろうが)およそ類をみない、翼のはえたような、天使の呼吸のような詩をそこに見る。

 

いずれもぼくだけの尺度で、価値で、それらは詩なのだ。そこに他人は関係ないし、定義も定説も這入ることは許さない。ぼくの価値だ。

なにがなにやらわけのわからない文章界隈に煩わされるのは厭だ。自由に書きたいものを書けないなら意味がない。誰も読まなくとも、書いたぼくは必ず読む。それでいいじゃないか。

 

そんな思考がぐるぐる、ぐるぐる回り、自分の書きたいものはなんなのだろうと悩んだ挙げ句に筆をおき、しばらくなにも書かずにいた。それからしばらくたって、たくさんの古書にかこまれたLE PETIT PARISIENで、なにげない世間話をしているなかふと、詩を書くのではなく、書きたいとおもっていながら書かずにいた短編を「詩で書く」ことをやってみようと思いあたったのだった。

そうして書きはじめたのが『人と木』だった。下書きをカクヨムに書き続け、適当なところで一区切りとし、それを『短編集 楠』と名付けて上梓した。

書きたいものを書き、うまくいかなかった部分もふくめて、形になった。

ここがひとつの終点だし、起点なのだ。

 

すべての行が詩で構成されているとまでは言えない。でもそれは「まだ言えない」というだけのこと。目指すさきはひとつ。いつか形にしたい。

だからもう悩んだり迷ったりしても、自分を見失うことはない。おりにふれて、本を開く、ここにある、触れる、読む、嗅ぐ、形がある。ここからはじめる。

短編とは便宜上つけただけのこと、これは小説でもないし、「いわゆる詩」でもない。いくつもの詩で編んだひとつのものがたりともいえないようなものがたり。でもそんなことは気にしなくていい、ぼくも、読む人も。

どれか一行でも、一言でも、読む人のこころに届けばそれでいい。

そういうものが、ぼくの書くぼくの「詩」だ。