木曜荘

ものかきの日記

十六歳くらい、ものを書きはじめたころ、一気呵成に書き上げてしまわないと終わりまで書けないというくせ(?)があった。感情のみで書きなぐっていたので、翌日になってしまえばそれが「つながらない」のだった。

荒削りに、勢いで、力強く、書けるだけ一気に書く、というのは、いまだにやっているけれど、そうして書き上げたところからやっとはじまる、と今では思っている。

時間をおいて熱をさまし、よけいな「力み」を抜いて、脱力させる。やわらかく、水のように自在な文章をめざしているので、必然そうなる。

感情の爆ぜたあとは必要な箇所以外はきりとる。平坦にしてしまうということではないけれど、余分な感情は雑音になって、読むときにじゃまになる。平凡な語彙で、平凡な文章をつくっているからこそ、よけいな雑音を排除しなければ、すべてが文字列のなかで埋もれてしまう。

一行のために、数行あるいは数十行を消すということもある。それで活かす一行が、ぼくの文章のすべてだと思っている。ほんとうに、文字は少なければ少ないほどいいと思う。論文じゃないし、歴史小説みたいに情報を売ってるわけでもないし、SFのように架空の世界を創りだしているわけでもない。自分の目で見てきたものを書いている、それだってSFと変わらないと言われればそれまでだけど。

水が高いところから低いところへ流れていくような、ごく自然な無理のない嘘のない文章を書きたい。需要はあまりないだろうけど、ぼくがそれを読みたいのだから仕方ない。

 

つまり、誰かに読んでもらおうというつもりがあまりないのだろう。もちろん読んでほしいと思う相手もいくたりかあるし、感想をいただけば励みにもなるけれど、最初の動機としての、自分が読みたいものを書くという思いが他よりはるかに強いのだろうと思う。

なので、そういう面ではかなり自由だ。嘘の香辛料を多量にいれて、食べごたえのある物語に仕立てあげなくてはいけない、という必要がぼくにはない。香辛料を様々に使い分けられる人、またそうして生まれた作品をこころからすごいとは思うけれど、ぼくにはそれをやる理由がない。素材の味のまま作る、それはとても味気ないものになるだろうし、見向きもされないと思う。でもそこにぼくの書く意味がある。つまりそういうものをぼくは読みたいと欲している。

そうした欲求のままに書く。そうでなければ楽しくないので書くのはやめると思う。

「この文章にあとはプロットが備われば…」という評価をいただいたこともあるけれど、それはまた別の道になるに違いない。それはぼくのゆく道ではない。

 

すべての道が、観光地のように目をひくなにかを有しているわけではないし、急な坂があるわけでもない、落とし穴があるわけではないし、そこに異世界への扉が待っているわけでもない。なんにもない道だってあるし、なんにもない一日のほうが多いだろう。ぼくはそのなんでもないを描きたい。なんにも起こらない道を、なにものでもないものがゆく、なんにも起きない、ものがたりにもならないそうしたもののなかにだって、詩はあって、息づいているから。それを見てきたから。

多くの人が見上げる桜並木の派手な花吹雪もいいけれど、誰が見ただろうかわからない路傍のたんぽぽのほうが好きなんだぼくは。

 

嘘を削って、熱を冷まして、軽くして、乾かして、雑音を消して、力みをとって、やわらかくすること。書いた先に、消すことがあって、それは書くこと以上に「描く」ということに繋がっているような気がするのだ。それはただ消す、ただおさめる、というわけではなく、それこそが描くという動作なのかもしれないな、とふと思った。