木曜荘

ものかきの日記

2022/04/13

もぎとった休日。

工期と丸かぶりだった長野順子先生の巡回展をできれば訪ねたくて、遮二無二作業をすすめ、あとは明日搬入されてくる植木を数本植えて完了というところまで進んだ。

ので、勝ち取った休日といえる。

 

朝はいつもどおり起きて、またセルフ喫茶店で先日書き出せた章をすすめる。一通り形になったので、添削までのあいだしばらく寝かせる。その間に、筆が止まっていた最終章を書き上げたい。その章は自身の病気と組み合ってにらみ合うことが不可避なので、なかなか精神的に参ってしまう。体力的に途中で止まってしまったのだった。なんとか勇気をふるって最後まで書きたい。そこはきっと読者も読むのがいやになる箇所になるんじゃないかと思ってはいるが、どうなるだろうか。

 

「楠」を書いているうち、詩というのはぼくの恋人のようなものだった。いつもべったり仲が良かったり、ときには喧嘩して離れたりする、そういったもの。もしかしたらぼくはその恋人と別れることをこころのどこかで望んでいたような気もしている。

「欅」を書いている今は、すこしちがう。「楠」はあくまで詩集のつもりで書いた。いわば詩へのそれは恋文だった。結果、冗長な散文詩のような、稚拙な短編小説のような、得体のしれない文章群としてひとつの形をなした。

「詩を」書く、ということから、「詩で」書く、というふうに考え方のかわった一冊になった。

そこからさらにかわって、いまは詩を恋人のようには感じていない。自分の外に詩はいないのだ。内面にどうやら詩の種のようなものをためこんでいるという点では、以前と変わりはないのだけど、自分が言葉を発するとき、文章を記すときに、「詩を」とか、「詩で」とか、そういったことをおもわずに発するようになった。それでは小説を志向するようになったのかといえば、そうでもない。あいかわらず、自分には小説は書けない、と思っている。そして詩もやはり、自分には書けないと思っている。

小説、散文、詩歌、そうしたくくりからぬけでたものかもしれない。あるいは別の迷路に立ち入ってしまったのかもしれない。それはわからないけれど、別段それを問題視していない。自分が「何を」書いているかという枠組みよりも、自分が「どういう言葉を生み出せるか」が肝要で、それがすべてなのではないだろうか。

思えばぼくはそういったことに拘泥しすぎてきたのかもしれない。現代詩のすべてを読んだわけではないけれど、こころに響くものにであったことはないし、そういうものが現代の日本で詩とよばれる域に生息しているならば、ぼくの言葉は詩ではなくともいい、というようなことを考えたり、なにくそぼくの書くものこそ本当の詩であって、それを理解しない現代詩のほうがおかしいんだ、なんて責任転嫁みたようなことをしたりもしたけど、いまとなっては心底どうでもいい。

といって、始皇帝が朕という一人称を独占したような自尊心でもって、それになにか新しい名をつけようなどとも思わない。読む人の自由でいい。詩を感じてくれればそれでいいし、そうでなくてもかまわない。いま大事にしているのは、どうすれば書きたいように書けるかだし、それがおもしろくむつかしいのだ。

賞レースに関しても、もう興味がほとんど持てない。詩の賞はあるし、小説、随筆の賞もあるけれど、そのどれに出しても合わないような気がしている。

ただ夢想は自由なので、いつかの誰かがこの本を読んで、植木のことや、自身のことや、病気のことなどで、すこしでもなにか感じとれるものがあればいいなと思って言葉を選び、練り、発している。そのために本という形にしたわけだし。

「楠」の続編として書いてきた「欅」もそろそろ終盤にちかづき、いよいよ「楠」を置き去りにして進んでいるのだけれど、それもそういった心情の変化があらわれたのだろうと思っていて、最初はそれに抵抗し、当初の線上を歩くように意識していたけど、いまは逸脱を楽しんでいる。言葉はぼくをどこへ運んでくれるだろうか、それがいっとう楽しみなのだ。