木曜荘

ものかきの日記

木曜荘雑誌

このごろ一週間がやたらと早い。忙しく充実している証かもしれないが、あっという間に日曜日になる。先月から日曜を休日に固定しはじめたから、余計にそう思えるのかもしれない。

今日は終日雨の予報だけど、予備日がまったくないので、いくら降ってもやるしかない。製本のためと思えば、なんでもない。いい動機づけになっていると感じる。

動機づけといえば、もうひとつ。

 

木曜荘雑誌

 

「楠・欅」で一連の表現がとりあえず完成した。作品としてはまだまだ不完全(未熟)ではあるけれど、完成はしている。まだ製本が待っているのだけど、欅を書き終えたらきっとからっぽになるのだと思っていた。本をつくるという目標はぼくにとってはとても大きなもので、難儀なものだったから、自然そうなると思っていたのだけど、予想を裏切って、「本をつくる」という行為にどっぷりはまってしまった感じがある。

一生に一冊は作りたいという思いから「楠・欅」を作りはじめた。ちょっとしたわけがあって二分冊になったけれど、これは二冊で一つ。それが終わったら満足するのだろうと思っていた。じっさい、「楠」の時点から、本になったという喜びはあった。でも未完成だった。「欅」を書き終えた。それなりの満足感は得られた。はじめたことを終わらせることができたのだから。でも、そこであたらしい欲望がうまれた。

本を一冊つくりたかった人から、本を一生つくり続けたい人になってしまった。書いて、それを紙にして綴じ、人に渡す、そして感想を聞く、その道中のくるしみやよろこびにすっかりはまってしまったのだろう。読みたい本が山のごとくあるように、書きたいこともやはりまだまだ山積していると感じる。凜や幸之介はもうあらわれないかもしれないけど、彼らが言えなかった、言い足りなかった言葉は、まだぼくの胸のうちにある。ある以上、それは表現していきたいと思う。

でも、いままでのように費用はかけられない。一生に一度と思ったからこそ、出せた金額だった。これからはやりかたを少し変えていきたい。

そこで思い出すのは、やはり先生の作品だった。お題を決めて、二人または三人で書いたものをもちよって、それを先生が美しい冊子として綴じてくだすった。そもそも本をつくりたいと思うようになったきっかけの大きなひとつに、その冊子があったし、そのときに感じた「これは素敵!ぼくもいつかやってみたい!」という思いは、いまも温度をたもったままぼくのなかにありつづけている。

「楠・欅」がおわったいま、当然のように、順番待ちしていましたという顔で、その欲望があらわれてきたのは、正しい。そうなってあたりまえだし、それに従っていきたいと思う。

詞華集または雑誌、というかたちでやってみようと思う。同人誌という言葉はよくわかっていないので、使わない。単純に雑誌でいい。できれば一冊でおわらず、つづけていきたいという思いがある。ぼくのおこづかいがつづく限り。

夏のうちに「欅」はなんとかなるだろう。繁忙期だし。それから資金を貯めるので、早ければ今年の秋か冬には着手できそう。できるといい。それだと書く時間もけっこうある。よいものをつくりたい。

詩歌、小説、随筆、絵画、漫画、戯曲、なんでもよい。ジャンルなどというつまらないくくりは遠ざけて、純粋な表現の場としたい。あとはこれに賛同してくれる仲間がいるといい。魅力的なものにしなければ、誰も賛同してくれはしないだろうから、もっと考え、もっと色々見ていきたい。たのしい。