木曜荘

ものかきの日記

2022/05/18

毎朝日記を書いているので、そろそろ書くことがなくなってきている。それでも習慣になっているので、起きるとこうしてノートPCを開いてしまう。

昨日は成増でマンションの植栽管理。雨の中、草刈もしたので泥まみれになり、掃除が大変だった。今日からは駒込樹木葬工事。初日は区画内に植わっていた樒の移植のみで一日がおわった。二日目の今日は斫りや掘削から。ユンボが入れないので全部スコップで掘ることになる。つらい作業なのだけど、なぜか楽しみに思っている。大変な作業がたぶん好きなのだ。

 

建設業に入門してから十年ほどたって、このごろやっと建設的な仕事ができるようになってきた。多分徐々に体力が落ちてきているからだろう。若い頃腕力で強引に進めていたような作業を、今では頭をつかってこなすようになってきている。せかせか動くことで出していた速度を、これもまた頭と経験を使って、段取りによって生み出している。

 

これは創作にもわずかに影響を及ぼしていると思う。以前は強い一行を求めていた。その一行で何千文字をも表せるような。それがすこしづつ変わってきている。いまだにそうした一行を求めてはいるけれど、そこにたどりつくための遠回りを厭わないようになってきているように思う。下地が整わないと、なにもろくに建てられないのだから。表にあらわれる建物のした、土に隠れてみえない部分に、その建物の骨があり、それは見えている部分よりはるかに重要でまた大きい。十見えているとしたら、そのしたには廿の骨がある。そうした文章を志すようになってきている。

 

詩という形式からはどんどんそれてゆくのだけれど、ぼくはあくまでも詩の延長線上を歩いていると思っていた。…これもまた「欅」で書いたことだけれど。ぼくは詩で育ったと思う。けれどいままでどんな詩を書いたかと考えると、ろくなものを書いていない。おそらく向いていない。それでも胸のうちにあるものをあらわしたくて、書き続けた。読んでいるからといって、詩を書けるわけでもない。

それでもいつからか周囲の人がぼくを詩人というようになった。違和感をおぼえた。詩を書けない詩人。はたから見れば詩を書いている人なのかもしれないけれど、ぼくは自分でこれはよい詩だと思うものを書いた記憶がない。ひとつくらいしか思い当たらない。ぼくはそもそも詩人ではなかったのだ。そう考えると、形式としての詩からは遠のいていくのがほんとうに自然なことのように思われる。

では小説を書くのか、と自問してみる。それもやはり違う気がする。小説も詩もその定義がよくわからないのだけれど、それでもなにか違う気がしている。やがてそうした自問に飽きて、どうだっていいんじゃない、ただ文章を書き散らかしているだけだ、そうして自分の言葉を探しているだけだ、というところに落ち着いた。ただのものかきだ。それでいい。それで充分。どういったものを書いているのと訊かれることがあれば、読んでくださいと言うしかない。それがなにかは読者のかたが決めればいいと思うようになった。

ぼくはぼくを限定してしまう必要はない。書きたいものを書くために、自由でいられることのほうがぼくには大事だ。自分がなにものかなんていうことは、書かれたものが、読んだ人が決めるのであって、自分で決める必要などない。そのためにコツコツと穴を掘り、土を運び、礎からひとつづつ建てていくのだ。いかなる風雨にもたやすくは負けない文章をめざして。