木曜荘

ものかきの日記

生死と本

通夜

 

今日は仕事のあと、従兄の通夜。まだ実感のない従兄の死と向き合わなければならない夜。誰もがそうだろうけれど、葬式というものはつらい。できれば会いたくないという気持ちも少なからずある。けれどそれ以上に、ちゃんと送り出したいという思いが強いから、みな仕事や用事に調整をつけて集まるのだろうか。明日の告別式も、直前まで悩んだが、仕事も休みにした。工期ぎりぎりの進捗だったので休みにくかったけれど、その分昨日でかなり進めることができたので、今日さらに進めて、明日は安心して参列したい。

自分の葬式は湿っぽくしてほしくないという思いがある。ふだんから好きで聞いているヒップホップやレゲエのようなアップテンポな音楽をかけて、みな陽気に飲み食いしてほしいと思っている。暗く重いナレーションのかわりに、たのしいDJがいたっていい。おりにふれて更新している遺言に、それを書き加えようと思っている。故人との思い出を話せばどうしたって涙はでる。そのうえ「泣かせるような演出」はいらない。せっかく集まってくれたのなら、楽しんで帰ってほしいし、ぼくもそのように死にたい。「楽しかったよ、ありがとう」そういって幕をひけたら最高じゃないの、と思うのだ。

従兄のことを思うと、いまはこころが虚ろになり、運転中などハッとすることが多い。その自覚はあるので充分に注意はしているけれど、やはりこころは奪われている。そうしたふわふわした心境をしっかり固定するという意味でも、やはり死とむきあうことは大切なのかもしれない。事実として確認して、それを受け入れる行いが。

 

 

 

昨日あまりに早く目覚めてしまったので、いろいろと整理しながら、書きはじめた。雑誌の名はたぶんこのまま「蝶」でいくけれど、「木曜荘雑誌」とするか「木曜荘詩花集」とするかはまだ決めかねている。…どちらでもいいのだけれど。

ぼくの書くものは題が「蕾」になりそう。本というものへのきもち、書くという行為に対する思いをならべたものになるか。それはいずれ必ず書こうと思っていたことだったので、ようやくそのときが来たのかな、と感じている。掌編という形になると思う。楽しみにしてくれている人もいるので、しっかりと書いていきたいし、雑誌のほうもなんとかうまく型をつくれたらと思っている。この先もどんどんつくっていきたいから。

書いたものをネットに掲載するという考えからはどんどん遠ざかっている。ネットは無料で掲載できるし、すぐに読んでもらえるという大きな利点があるけれど、ぼくはやっぱりどうしても紙の本にこだわりたい。書く方も読む方もお金がかかってしまうし、本棚の一隅を奪ってしまうけれど、このこだわりからは抜けられまいと思っている。しかたないことだ。時代遅れかもしれないけれど、それを自分がやりたいのだから、生きている限りそれをやるのだ。そうすれば「たのしかった」といって死ねるだろう。売れなくていい。この世にのこして、いずれ誰かが読んでくれればそれでいい。それがぼくの雑誌における成功の定義だ。