木曜荘

ものかきの日記

2022/06/07

昨日はなかなかの雨降りの中で働いていたが、チャドクガだらけの山茶花の生垣が延々と植わっている現場だったので、雨でちょうどよかったかもしれない。チャドクガは椿や山茶花につく毛虫で、その毛には強い毒がある。耐えがたい掻痒を発し、掻いてしまうとさらにひろがり、腫れる。植木屋の天敵のひとつともいえる。そのチャドクガの飛ばす毛が、雨のために飛散しずらかったのではないだろうか。大量に発生しているわりには被害はとても少なかった。剪定をしっかりしさえすれば、チャドクガもつきずらくなるのだけど、昨日のような団地などでは予算的に考えてもそうはいかないのだろう。

 

昨日で、詞華集にお誘いした方全員からのお返事が揃った。みな参加してくださるとのことで喜びにふるえた。飛び入り参加も一名あったし、ありがたい限りだ。それからブログやTwitterなどで、書き始めてくれていることを知る。嬉しい。主宰なんてぼくにはとうてい無理と思い続けていたけど、なんでもやらないとわからないし、この喜び、楽しみは完全に役得だと思うと、勇気をふるってはじめてみて本当によかったと感じる。

原稿料をお渡しできないのが本当に無念だけれど、それでも快く引き受けてくださって、感謝しかない。

とりあえず、ふたつの掌編ができた。あいかわらず小説とも随筆とも言えないような「なにか」だ。どちらもこの頃の身の回りのことを書いた。書きたいものを書こうとすると自然そうなる。つくづくいまの時代の流れ(そんなものがあるとして)に逆らうようなものばかり書いているなと感じる。ただ逆らおうとして逆らっているのではなく、あくまで書きたいように書いた結果がそれなのだけど。

 

 

以下すこし苦言になってしまいそうだけど…。

ストーリーとかキャラクターとかいうものに偏重して、言葉がなおざりになってしまういまの文芸の風潮は好きではない。型のなかでいかにして個性を出すか、という不思議なことに躍起になっていて、型にはまることはすでに前提としてあるのも気に入らない。そうした型のせいなのか、焼き増しのような作品が大量にあふれて、そのどれを読んでもおもしろいとは感じないし、胸をうたれることもついぞない。

そうした風潮にたいして反抗したいという思いもないではない。でもそんなことを主眼にしてはつまらない。ただ自分のよいと思うものを書き、よいと思うものを集めて、一冊にこめたい。そのためには型にはまっている暇などない。書きたいという欲求が第一で、自分を超えていくことが第二だとぼくは感じている。そのなかで自分の型ができていくのはよいと思う。お仕着せの型など必要ないのだ。既存の型におさまっている以上、言葉が自分を超えていくことはないとも思う。

…とはいえ、人は人それぞれの楽しみがあるので、本来こんなことは思っていても書くべきではないのかもしれない。ただこれは、他者を批判したくて書くのではなく、あくまで自分と自分の周囲に見えるいまの文芸の景色との差について話したかっただけだ。誰をも否定するつもりはない。ただ、いまの風潮(とぼくには見えるもの)を否定したいだけで、それに関わる人々を否定したいわけではもちろんない。

退屈ないまの文芸の世界に、独立独歩するような詞華集を編めたら、死んでもいい。そういうつもりで臨んでいる、という話。