木曜荘

ものかきの日記

2022/06/26

昨日は暑かったし熱かった。

午前中、拭いても拭いても流れる汗を垂らしながら、現場二件。移動の車では危険を感じたのでさすがにエアコンをつけた。暑さと疲れとでぼうっとしてしまうのだった。

現場は常連のお客さんばかりだったので、すんなりと終わった。帰って風呂に入り昼食をとり、すこし休んでから「大血眼展」最終日に遊びに行った。

お客さんと、作家さんと、色々お話ができてよかった。撤収後の反省会の席のすみっこで覗き見させていただいて、そこでもたくさんの刺激を受けた。

三十人近い、しかもそれぞれの個性がほんとうに強い作家さんを、一箇所にあつめるということはものすごいことだと思う。主宰の太田さんと話したりなかったので結局最後の最後まで居残って、いろいろとお話をさせてもらった。

 

「絵画は強い」と日頃から思っているのだけど、それを再確認した。文章のように「読み進める」という作業をさせることなく、ただそこに「ある」ことのみで、観るものに直接訴えかけることができる。それは音楽でもそうかもしれないけれど。

キャンバスは窓だ。そこから作家の見た世界をぼくらは垣間見ることができる。大血眼展は無数の窓の集まりで、実にさまざまは景色がそこに並んでいた。あの会場で渦巻いていた力というものは、絵でなければできなかったものだと思う。そして個展のような形でもできないものなのだろうと思った。引き寄せたり反発したりする磁力のようなものがそれぞれの作品から発されていて、そのあいだを漂うようにふらふらとぐるぐると、何度も会場を回ってしまう。とてもいい体験になった。

 

絵は強い、という話をすると、ひとりの作家さんから「言葉のほうが強い」とも言われた。やはり隣の芝生なのだろうか。ぼくは描けるものなら絵を描きたかったけど、まるで絵心がなく、思い描いているものを形として描くということができないのだ。だから画家という人たちに対して敬意と憧れが尽きない。でも自分は絵をあきらめて、文章の筆をとったので、いまは文章で絵を描くことを試しているけど、こうして多くの画家さんたちと話すと、やはり言葉では得られないものが絵画にあると強く感じるのだ。

それでも、自分にできる、自分にしかできない表現を求めて深化させていこうとすること、それは文でも絵でもかわらないことなので、強い共鳴を感じた。またこれから書いていくための大きな力、熱量を受け取ることができた。

自分は自分のままに書きたいように書くこと。それがすべてなのだと改めて感じた。熱い夜になった。

 

『欅』の仕上がりを待ちながら、『蕾』を書いては削りをくりかえしながら、次はどういうものを書いていこうかと考えている。というより感じ取ろうとしている。どういうものが、自分の中から放出されたがっているのか、よく耳をすましてみる。『蕾』に取り組んでいる最中だからか、ほぼ無音にちかい静寂をたもっているけれど、それでも声の予兆のようなものはある。それがどういうものになっていくのか楽しみだ。