木曜荘

ものかきの日記

『欅』感想その二

昨夜も書いたとおり、LE PETIT PARISIENの主人J氏より、『欅』の感想をお手紙でいただいた。

全文ここに紹介したい気もするが、あくまでも「ぼくあての手紙」なのでそれは気が引けるし、なによりそれはちょっともったいない、という思いもあるので、いくつかの文を抜粋してここに引用する。

 

随分と上から目線で恐縮ですが、前作よりも数段文学的に洗練されたものに昇華したのではないかと、幾分の驚きを持った読後感を味わいました。殊に詩を書くではなく詩で書くのくだりは、今後の貴方の創作における生命線になり得る重要な予言と強く実感しました。

まず、ぼくはここに強く感動した。「詩で書く」というのは前作『楠』を書き終えてから『欅』に至るまでの間に得た、ぼくのひとつの発見であり、実験であり、そして勝負でもあった。きっと誰にもわかるまい、と考えていた。シャドーボクシングのように、ぼくだけに見える対象を殴るように、虚空を殴っていたにすぎない。ドン・キホーテとまでは言わないが、それらの試みが空振りにおわることは覚悟していた。なのでこの一言だけで充分に報われたし、今後も迷わずに書いていこうと感じた。

 

恐らく貴方は今回の著作を短編集ではなく詩集として発表したかったのではないでしょうか。仮にそうであったなら、もう迷う必要はありませんよ。これはまさしく「詩集」そのものです。

見透かされたような気持ちがある。『楠』のときは一層そうであった。『欅』ではそれが薄らいだというか、すこしの変化があった。詩で書くと言いながら、「短編集」として、あくまでも詩集とうたわなかったのは、ぼくの冷笑と挑発のような感情がすこし含まれていたのだと自分では思っている。「これは詩ではないのでしょう」と、詩壇(などというものが存在するとして)そして詩人たちに向けて問いたいのだ。では詩とはなんですか。形式ですか。様式ですか。いま巷間にある詩と呼ばれるもののなかに、どれだけほんとうの詩がありますか。ぼくはそれを問いたいのだ。これは純粋な問である。ぼくはそれを知りたい。詩とはなにか。

 

貴方の文章は常に説明的ではなく多くの示唆を含んだ一つのリズムです。これは紛れもなく詩の一形式です。僕にとって詩とは「詩とは何であるかを常に問い続ける姿勢」に他なりません。物事には正しさが存在しない故に、我々は新しい何かを考える余地が与えられます。詩に対する貴方の葛藤や叫びも全て詩化することは可能です。あとは貴方の選択次第です。次回は「詩集」を出版されることを切に期待します。

反響としての感想でありながら、まるでぼくのこころのうちを代弁してくれるかのような言葉に、背中を押される思いがする。共鳴があったのではないかと思う。どこかの文章、言葉に。そうだとすれば、これほど嬉しいことはない。

「詩とは何であるかを常に問い続ける」ことがぼくにできるかどうかはわからない。けれど、こうやって今後も書いていくだろうということには疑いはない。

読んでくれるすべての人の期待に応える、応え続けることはむつかしいことであろうし、またそれだけの能力をぼくは持ち合わせていない。だから好きに書くだろうと思う。こうしてたまに、誰かのこころに触れることができれば、死んでもいい。ぼくもぼくの詩も、それで充分に満足である。

他にも面とむかって、あるいはライヴ配信で、様々な言葉をいただいたが、それはすべて自分の胸のうちにしまっておくことにする(ライヴ配信は誰でも見れると思うけれども)。次の作品への良質な糧にかえたい。本当にありがたいことだった。

 

 

 

LE PETIT PARISIEN HP⇩

www.le-petit-parisien.com

フェイスブック ライヴ配信⇩

近日開催のイベント参加の告知〜『欅』について〜詩について〜パフォーマンス

(語気の強まる部分がありますが、いつもの「ノリ」ですのでご安心ください(笑)。

ぼくの本を持ってくださっているのは詩人・劇朗読者の「ルネシェヴィリコフスキ」さん。語り手はプチパリ主人のJ氏です。観てみてください。)

www.facebook.com

 

ルネさんTwitter

(ご興味のあるかたは、InstagramYou Tubeもありますのでチェックを)

twitter.com