木曜荘

ものかきの日記

2022/08/19 仕事について

拙作『欅』でもいくらか言葉を割いて向かい合った事柄だけど、なぜ働くのだろうという問いがこのところ激しく胸のうちで暴れている。答えはでない。

ぼくは仕事を書くことだと思っている。ブログではない、Twitterでもない。作品を書くことだと思っている。それで生活することなどできないとしても、書くことのみが仕事だと思っているのだ。その思いが諸悪の根源とも言えるかも知れないが、これを変えるつもりはない、だって事実そう思ってしまっているのだから。受け入れるしかない。

働くのは第一に生活を続けていくためだし、生活を続けるのは仕事を、つまり書くことを続けていくためだ。そうして蓄えたお金で本をつくる。それだけがぼくの生きる意味だし、そういう意味で仕事なのだと思う。

いま生業としている植木屋は、十年以上続けているし、業界での知り合いも増えたし、仕事もいろいろできるようにはなってきたけれど、やはり合っていないと感じることが多い。庭は好きだが、特別な車両や重機をつかうようなおおきな現場はやはり好きではない。業界で続けていくには致命的といっていいまでに好きではない。

できれば本に関わる仕事に就きたい。『欅』で幸之介に言わせた言葉が、やはりぼくの心底の声であったと感じる。当たり前だけど。すばらしい製本家さんとしりあうきっかけを得てから、そこへ弟子入りしたらさぞ楽しかろうという思いが離れない。

いや、いまの植木屋の仕事だって「楽しんで」はいるのだが。仕事はなんでも楽しめる、なんでもというと語弊があるようだけど、楽しむために努力することはできる。つまらないと思いながら一日過ごすのは時間の浪費だし、拷問にちかい。これは周囲が高校大学にすすむなか、早いうちに社会に出てはたらいていてよかったと思えるぼくの財産のひとつだ。

その時、その場面の、消去法で選んだ植木屋。なんとなく十年続けて、なんとなく独立。はやい話が飽きたのだろうけれど、本音はもうちょっと複雑なところにある。転職を考えつつも、機械が壊れれば買わなければならない現状がいやだ。いまはただ、製本のため、というひとつの呪文をくりかえし唱えることでなんとか一日を励んでいる。

来年、四十になる。人生の残り時間もわずかである。好きなことだけをして暮らしたい。そのための努力苦労なら買ってでもするつもりはある。しかしそううまく転がる話でもあるまい。こういうふらふらしたこころで、残りの数年、植木屋として生きていくのだろうか。転機は向こうから来ているようにも思われるが。

とまあ、こんな感じの懊悩が堂々巡りしている。なんらかの答えか、一応の決着をつけなければ、ちょっと精神的によろしくないなと思いつつ、決定的ななにかがずっと欠けていて答えがだせない。