木曜荘

ものかきの日記

2022/10/02

休日の朝、いつもどおりに起きてしまい勿体なく思い、二度寝をこころみたがうまくいかなかった。うすい眠りのなか仕事の夢ばかりを見ていた。

イヤホンで雑談動画を聴きながら、道具の手入れ。雨の日が続いたので、剪定鋏がいよいよだめになった。二年くらい使ったかな。成仏してくれ(と言いつつまだまだ二軍で使うけれど)。ぴかぴかになった鋏を眺めるのは心地いい。

洗車や道具の手入れの頻度がいちじるしく減っていたなと思い当たる。仕事への動機づけが弱まっていたからだろう。道具たちが可愛そうなので、そのあたりの気持ちを改めようと思った。片手刈込(葉刈)鋏のケースも先日壊れてしまったので買い直す。新しい牛革のケースははりつめていてよそよそしい。これがだんだんと馴染んでいくのはまたおもしろい。大事に使うことにする。外に置いておいた束子から芽が出るなんて、よほど手入れをさぼっていた証だ。(これはこれでかわいいが…)

 

昼過ぎて、電車に乗る。町屋から下北沢へ。駅周辺は雑踏がひどかった。若者の街だと感じた。ぼくの目に魅力的に映るものはあまりなかった。服も食べ物も、ぼくのようなものに用意されたものには見えなかった。他人の街である。

一本道をゆけば賑やかさはしんとおさまり、静かな世田谷の住宅街がそこにあった。放任されておおきくおおきく膨らんだ金木犀、朽ちはじめている空家にはもったいないほどの芳香が漂っていた。ガムテープで養生された玄関の扉を、なんとなくさみしい思いで眺めたりした。

賑やかな街の角にある「ギャラリーHANA」さんへ。

長野順子先生の銅版画展『樹木幻想綺譚』の最終日にすべりこんだ。新しく見る作品にあらたにこころを撃たれたり、家にも飾ってある作品をみつけて驚いたりして楽しんだ。そのうちのひとつを我が家にあらたにお迎えした。

ぼくは絵画を蒐集したりするような余裕のある人間ではない。大した稼ぎもないし、家の中に絵をちゃんと飾れる空間も、もうあまり残されてはいない。でも長野先生のこの三つの作品だけは、我が家にお迎えして毎日眺めたいと思っていた。今日でやっと自分のなかで「揃った」と感じられた。(とはいえすでに新作『月の娘』をお嫁さんにしたいなどと思ってはいるが…)

ぼくには蒐集癖はないが、それでも次から次へと素晴らしい作品に出くわしてしまう、これはうれしい悲鳴というやつだと思う。もっと稼ごう、とこういうときだけそう思う。「あの絵画をお迎えしたいから頑張って働こう」という考えは、とても健全だと思うのでよしとする。

長野先生の作品を見ていると、その細部にどんどんと入りこんでしまうような錯覚を覚える。それは1mmの妥協もそこには存在しないということだ。その先、1ミクロン、さらにその先、香りや視線のような目に見えないものとおなじほどに、ぼくはどんどんちいさくなって、線のなかを泳いでゆくのだ。

ぼくは文筆を握るときに、そこまでしっかりと書いているかあやしい。一字一句だけの話ではない、そんなんじゃぜんぜんたりない。余白までが詩文であると思うから、余白をどう残すか、なにを語り、なにを黙すか、そういうところまで、丹精込めて、ひとつひとつ生みだしているか、そういうことを、それらの作品を鑑賞しているときに、胸のおくで問われることになるのだった。そしてそれがたまらなく快感なのだった。

細部がすべてだと思う。いわく、細かいところ「にも」こだわった作品、というような言葉を見かけることが多いが、そうじゃないとぼくは思っている。細かいところだからしっかりとえがくのだし、それが全体をかたちづくっていくのだから、細部こそ全体なのだと思うのだ。

長野先生をはじめ、ぼくが尊敬する方たちの作品(絵画に限らず)に共通していると思われるのがそれだ。どんな細部を見てみても、そこに作品のすべてが存在している、ということ。あるいはしっかりと背骨のようなもので支えられ、血管のようなもので結ばれている、そういう感覚をあじわえるのだった。

ああ、ぼくはまだまだだな。ほんとうに、まだまだだ。はじまったばかりだし、終わりはそう遠くない、時間はない、しっかり書こう。素直にそう思えるということは、ほんとうのさいわいのひとつであろうと思うのだ。