木曜荘

ものかきの日記

日記4/26

ものを書いていて「説明を省く」ということが、ぼくにとっては当たり前のように目指すべきものなんだけど、人によってはそれは怠慢にも見えるのだろうな、と思った。
これは怠慢ではなくむしろもっとも苦心していることで。別に言い訳するつもりもないし、やりかたを変えるわけでもないけど。
ふと思った。

ある一行の説明文をカチャリとはめれば、溝はうまって容易に先に進めることができる。たぶん読んでるほうも読みやすい、わかりやすい。でもそんなことにどれだけの意味があるのか。読みやすいものを書きたいならそうするべきだろうけど、ぼくの目指すのはそこじゃない。
わかりづらくなっても、傍目には見えないむだな苦心でも、かまわない。というか、書きたいように書けないなら書く意味もないのだし。


鬱が晴れたらしく、読書や筋トレの習慣がもどってきた。冬のあいだ荒れるに任せた体を「直していく」ような感覚を楽しんでる。
持病のために、体をいい状態でずっと維持することはむつかしいけれど、もとに戻す苦労を楽しめるならそれでいいのかもしれない。
筋トレの習慣が戻ると、生業にも執筆にもたいへんいい影響を及ぼす。体を鍛えて血液や酸素を躍動させることは、精神を鍛えることと同じ。
コロナ禍のために仕事はまだまだ安定しないけれど、なんとか立ち向かっていくための支度が整いつつある。