05/03 書くだけ
生活の質、QOLとか言うのも聞くけど、そういうものの「向上」なんてぼくは知らないけど、いつだって、正気でいられるあいだはいつだって、ぜんぶがぜんぶ、といっていいくらい、書くことにみんな向かってる。それは向上とか向下とかじゃなくて。
…向下は禅の言葉だったかな、今はもうそんな金言も格言もいつのまにか要らなくなったけど、老荘や禅には救われてきたっけ。だからぼくもそういう言葉を放ちたいだなんて気負っていたときもあったけれど、今はどうかな。書きたいものは変わってきているのかもしれない。
ぼろぼろのPCをあきらめて新調するのも、体を鍛えるのも、生業のために工夫をこらすのも、ご飯を食べるのだって、みんな書くことに向かっているんだって思う。
正気でいられる時間を少しでもながくしたくて、そのために心身を鍛えてるわけだし、栄養のある食事を心がけるわけだし、生業も続けていけるのだろう。ただ、書きたいので、それだけ。
躑躅と生まれて青蓮の花を咲かせる躑躅はないように、ぼくはぼくとして生まれてきたのだから、色が、香が、形が、たとえ自分の思うようなものでなくとも、咲けばいい。
無為、恬淡、素直、ありのままに、むつかしいことではない、それはとてもかんたんで、とてもやさしいことなんだろう。
社会だとか、常識だとか、通念だとか、そんなものは本当はどこにもないし、実体のないものを気にする必要もない。他人と比べてみずからの、咲きかたをねじまげる花などないし、そうする必要なんてすこしもない。
誰に否定されたって、蔑まれたって、嘲笑われたって、そうして生きるしかない自分を認めてしまった以上、そうして生きていくわけだから、ただ書けばいいんだ。
ぼくは書く。
あなたみたいに。あなたと同じように、あなたとまったくちがう花を、どこか似ててもまったくちがう花を。
ぼくは咲く。
くらい、湿った、土の中、光のない底の底から水を吸いあげ、幹をはしりのぼらせて、言葉をおもいつくまま茂らせて、全霊こめて花を咲かせる。咲かせられるだけの花を咲かせて、土へもどる。
それまでのあいだ、すこしばかり世の中の、すみっこのほうに間借りして、ひっそり暮らしながら本を読み、いくたりかの仲間と言葉をかわし、魂を震わし、そして書く。
なんて贅沢な生だろう。
冬にはすっかり言葉をうしない、裸で歯ぎしりしてふるえるしかないとしても、やがて芽吹く、あたらしい言葉、そのときぼくはまた、あたらしく生まれる。
そして自分を赦すことからはじめる。病に苦しむのは罪ではない。書ける日がいつかかならずくる、そう信じて、今日まで生きた今日までのぼくを、祝うように赦す、託されたものを書く。
つないでゆく。
つづいてゆく。