木曜荘

ものかきの日記

芋をどうやって食べるかなんて自分で決めろ

小説に限らず、映画や舞台なんかでもそうなんだけど、「添加物」みたようなものを作品から感覚的にとらえてるところがぼくにはあって…

たとえば寺山修司の映画作品なんかは、添加物もりもりで、色鮮やかで、見た目もいいし、味もはっきりしてる
そういうのは分量しだいで「くどく」なったり、濃すぎて味蕾が混乱したりするんだけど、そんなのもろもろわかったうえであえてもりもりにしてるんだろうな、とかも思う
じっさい、「あれ、いまなに食ってんだっけ?」という混乱は心地よかったりもする

ただあまりに添加物が多すぎると、ぼくは最後まで観れない(読めない)ことがあるんだけど、それはお腹いっぱいになるまえに飽きてしまうからなんだと思う、もういいやって

でもそうなるまでに味わえる刺激というのは本物だし、感じたり得たりする何かはある
それは添加物の奥にある「素材」だったり、添加物の使い方(味つけも含めて)だったりするんだろうと思う…

たとえば芋があって、それを食べようと思ったとき、じゃあどうやって食べようかっていうところが作品論なのかなと思う
揚げてもいいし、炒めてもいいし、味つけなんかはみんな好きにすればいい
保存料を使いたいひとも、着色料をこれでもかと使うひともいる
素材の原型なくなるまで手を加えたっていいし、芋の味なくなるまで調味料をぶちこんでもいい、みんなみんな好きにやればいい

ただ、ぼくの好みは、無添加に近いものなんだろうなぁって最近思う
出来事はあったとおりに、思ったことは思ったとおりに、出たがる言葉は出たがるままに、そのままに

すこし蒸したりしないと食べられたもんじゃない、というものも素材のなかにはあるから、当然それを食べるのに必要と思う料理はするわけだけど、できれば自然のものだけを使いたい
感じるままに歌いたい

こうしたほうがもっとよくなるとかいう、味の研究を完全に放棄してしまうというわけではないのだけど、でもやっぱり、素材の味を楽しみたいんだろうな

芋を切って揚げてポテトチップスにして、世にまだなかった新しい香りや味をつける作家をすごいと思うこともある
新しいな、すごいなって
でも、満腹になるまでゆっくり食べられて、観賞し終わったあとにじわじわ消化されて、そのあとにしっかり栄養になるものがやっぱり好きで、そういうものを読んできたし、観ていきたいし、聴いていたいし、描いていきたいんだとふと思った

フィクションノンフィクションの話ではなくて、なんというのか、表面的な味つけに縛られていない、ありのままの作品をつくりあげる作家と作品がこの上なく好きで、ぼくもそうありたいという話で

不必要なまでに、味つけすることばかりにとらわれて、素材(描きたいこと、感情、思考、ことば)を台無しにしたくないということ


だからぼく以外の人には、もし食べられると思えたならお召し上がりください、お口にあわなければ構いませんので残してください、ぼくが食べるために作ったものなので、という感じでお断りすればそれでよく、そうすれば自分の創作にほんとうに集中することができるだろうねっていうこと

芋を食べながらそんなことを思った