木曜荘

ものかきの日記

曳舟の夜

先日の記事で、「ともだちは要らない、仲間がいるから」といった内容の日記を書いた。先日のとある会合のあと、同じような言葉を人から聞けた。

 

昼は暑かったけれど、夜になれば半袖ではすこしさむいほどになった、ぼくは腕をさすりながら、走っていく明かり、京成線の銀河鉄道を見ていた。画家のOさんは安い煙草に火を点けた、その煙草よりもさらに安い煙草をぼくはジーンズのポケットに持っていた。

ある会合があって多くの人が集まった。その半分はOさんのことばでいうところの「大抵の人」で、もう半分はぼくのことばでいう「怪人」たちだった。あるいはもののけの類かもしれない。もちろんいい意味で…。

演奏、朗読などがあり、せまい古民家の二階の床はたよりなげに軋んだ。床が抜けるのではないかと危ぶんだ場面もあったけれど、無事に終わった。その帰路だった。

他のみなは大量にもちこまれたお酒をあけてそれらを酌み交わす準備をしていた、ぼくはそこから逃げるように去った、いやそれは予定があったからだけど。もし当夜予定がなかったなら、この日記の内容はおおきくかわっていたことだろう、あるいは書かなかったかもしれない。

その日の主役はあくまでも画家のOさんのアクリル・木版などの展示と、詩人のRさんの鉛筆画・写真の展示が主役だったので、ぼくはすでに満腹だった。

おまけに、パフォーマンスが終わったあとにスマホを見ると、入院中の恩師の手術が成功されたということがわかったので、うきうきとした足取りで帰路についたのだった。祝い酒という考えも一瞬よぎりはしたが、Tさんを知らない人と祝うのもいいけれど、もっとせまい身内だけで、後日、噛みしめるように祝いたいと思ったのだ。それまでとっておこう、と。

 

駅の明かりが見えてきたころ、ふたつの人影がたちどまってこちらを見ていた。画家のOさんと歌手の某さんだった。歌手さんは先程のパフォーマンスの際に、はじめて観るRさんの奇妙な発声による朗読や、憑き物のような舞踏に目をまるくしていたのが見え、それが印象に残ったのでおぼえていた。お気の毒に、と可笑しかった。高架のあかりのしたで立ち話がはじまった。

 

Oさんとの「出会い」は、曳舟のオープンな書斎「LE PETIT PARISIEN」での木版作品の展示だった、あるいは恩師T先生の創った題名も装丁もない一冊の本だった。「例の本」「あの白い本」と呼ばれるその不思議な魅力をもつ本には、T先生の周囲の多くの人が寄稿しており、そこにOさんもぼくも参加していたのだった。ぼくは詩を載せていただいた。当時まだ筆名を用いていたので、いまだにOさんはぼくを「侘介」さんと呼ぶ。

kakuyomu.jp

 

ぼくはその本よりさきに、すでにOさんの作品にすこし触れて、興味をもっていた。Oさんは上の詩を読んでぼくに興味をもったという。だからはじめましてのご挨拶をした時点で、すでに初対面ではないような感じがしたのを覚えている。「あなたがあの…」という感じだった、お互いに。

といってぼくたちは、頻繁に連絡をとりあったり、ご飯を食べにいったりするような「ともだち」ではないし、別にそれを求めてもいない。会えばいつもお互いの作品の話をする、彼は絵筆、ぼくは言葉、使うものはちがうけれど、描こうとするものは似てもいるような気がしている。「ふつう共感できないような箇所で共感しあう」「わかりやすい部分での共鳴はないのがおもしろい」というようなことをOさんは言っていたが、ぼくもまったく同じ感想をもっていたし、それを心地よくも思っていた。

仲良しこよしのともだちではないけれど(仲はいいが)、かなり濃い仲間のひとりだと思っていて、日頃からぼくは

「仲間がどこかで今日も創作し、苦しんだりもがいたり喜んだりしているのだろう」

と思うことがあり、そしてそう思うと自分もしっかりと自分の道を進もうと奮い立つのだ。それとまったくおなじことをOさんが言ったときには、ぼくは笑ってしまった。ただ嬉しかったのだ。

誰に評価されなくとも、本は売れずとも、こうして存在を認めてくれる方がいるのはとてもうれしく、また心強い。

「ぼくは書いて書いて書きまくるだけだな」

帰りの電車、むねのうちでそうつぶやいた。