木曜荘

ものかきの日記

2022/04/10

工事の一週間を終えた。庭の一週間とくらべると嘘みたいに疲労がたまるので、朝は起きられないものと思っていた。それに加えて、昨夜は曳舟のル・プチ・パリジャンで朗読を観て、眠るのが遅くなったのもあった。お酒も少量入っていたし。

けれどいつもどおり五時に起きたので、せっかくだから二度寝はよしてこのまま起きていようと思い、着替えて用事もないのに外へ出た。すこし歩いて、コンビニで珈琲とフルーツのジュースを買って帰宅。そこからずっと台所でものを書いていた。

シンクの横で椅子に腰掛け、ジャズを流して、ひたすら書く。セルフ喫茶店。コロナ云々の前からぼくはセルフ喫茶店を愛用しているのだけど、理由はただひとつ単純に煙草が吸えるからだ。近所のお気に入りの喫茶店も続々と全面禁煙になって、どこへも行かなくなった。煙草をやめさえすればまた喫茶店に通えるなぁなどと思いつつも、なかなかやめられない。

でも、ぼくの書くものは卑近というか地べたというか生活と距離が近いので、案外台所という家の中心で書くというのは、意外な効果もあるのかもしれない、などとも思うのだ。そうして印刷した原稿を寝室や車中や現場で読んでは直していくのだ。おしゃべりをしたり発想をふくらませたりするのに喫茶店以上の場所を知らないけれど、ひとり壁にむかって書き続けるには、案外台所も喫茶店といい勝負をするのかもしれない、と言って、喫茶店にいけない寂しさをごまかしてみたり。

 

今日は新しい章の書き出しができた。一字一字削っていく作業のように体力根気は要らないかわりに、瞬発力を要する作業だなといつも思う。中身はあとでいかようにも添削できるとしても、なんといおうか、源流というか、流れのもとになる器と言葉を用意して、そこからどっちへ向けてどの程度の圧でどういうように流していくかが決まるような気がしていて、それをとらえることができるのはその「瞬間」だとおもうのだ。

その瞬間ではないなら、どんなに白紙の前にがんばって座っていても、おそらくいつまでも言葉は始まってこない。書いて消してを繰り返すのだ。そういうときは潔く生活に戻るほうがいい。無理にひねりだす言葉には重量が足りないことが多い。自分の場合。

 

明日からまた一週間工事に入る。今日はそのさきの仕事も確保できたし、安心してもうすこし書きすすめていきたい。