木曜荘

ものかきの日記

ちょっとした思い出

書店であんまり安く売っていたので迷わず買った「外村繁 川崎長太郎集」をしばらく読んでいた。外村「澪標」「落日の光景」、川崎「鳳仙花」など。読んでいてつくづく思ったのは、自分が書きたいものはいわゆる「私小説」ではないな、ということ。

…そもそもそういったくくり自体、ぼくは必要としていなくて、詩でも小説でもなくて、ただの散文でいいと思っているのだけど、それはまぁ、別の話。

どうしてそんなことを思うのかといえば、そういった評価をされたことがあるからだ。それはぼくにとってとても意外なことだったので、数年前のささいな出来事ながらいまでも覚えている。

・・・

数百字書いて、消した。この場は純粋な日記なので本当は何を書いても自由だけれど、こうして公開している以上は、読んでくれる人(後日の自分も含め)に不快な思いはさせたくない。

まぁ、その、いろいろあってですね…「ぼくは自分のことしか書けないし、自分の見てきたものを書きたい」という話をネット上でしたときに、「私小説かぁ、私小説に傑作は生まれづらいんだよなぁ」と言われたのですけど、これがいまだに思い出すと可笑しくって、ばかばかしくって。なんでそうなるのって感じたわけです。

まず、その「私小説的」でない文学作品というものがあるなら教えてくれ、ということ。「転生したら…」とかそういうのは抜きにしてね、もちろん。あれらは娯楽のための文章であって、表現としての文学とはおおきく一線を画している、ことさら言うまでもないだろうけれど。

それから傑作というのは一体どういったものなのか。万人が諸手をあげて傑作と認めるそんな作品がどこかにあるの。一神教聖典はどれも世界中でひろく読まれているが、そのぶん実に敵も多い、そんなことは中学生でも知っている。焚書坑儒の故事もある。

二十歳そこそこの多読の文学かぶれ少年がTwitter上で得た支持のうえで、そんなことを言うのがこの「界隈」の姿なのかと知らされ、彼らとのつながりを断った。そもそも土台が違いすぎた。

 

いま、これを書く前に観ていた「映像研には手を出すな!」の作中の台詞を思い出している。

…私は私を救わなくっちゃいけない、私はここに居るって言わなくっちゃいけないんだ…

アニメーター志望の水崎氏のこの台詞に、ぼくは心底共鳴をおぼえる。

誰もそんなところ見てないよ、誰にも気づかれないよ、そんな些細なことにこだわらなくても、そんなんじゃ売れないよ、傑作とは程遠いよ…

うるせぇ!って。

自分は自分の書きたいものを書きたいように書くことしかできないし、それを望んでいるし、それでいいと思っている。人から傑作と呼ばれたいなどという欲はまったくないし、そんな事言われたらかえって疑うだろう。ただ、あの一行が好きですよ、などと言われることにとてもおおきな喜びを感じることはあった。ああ、見てくれてる人はいるんだ、そういう人たちに、ここにぼくが居るんだってことを発しつづけること、それが書くということの理由なんだ。そう思った。これは本をたくさん読んだ経験からではなく、文章を書き、本という形にした経験から得たものだ。これはぼくの個人的な体験。そして、これを書くことができるのもぼくだけだ。

ぼくの書くものは誰にでも書けるあたりまえの文章だと思う。でもそこにぼくは背伸びした醜悪な自分を見たくないし、嘘もつきたくない。第一の読者は自分だから、それらは決して覆せない。…

嘘はつかない、といってそれは実際にあった出来事だけを正確に書くこと、ではないのだ。…そのへんのことを事細かに話さなくてもわかる人とだけ、これから先もつきあっていきたいと思っている。わからないひとに、わかってもらおうとは思っていない。

 

そんなことを思い出したり、思ったりしていた。