木曜荘

ものかきの日記

予定は未定

昨年、「楠」を上梓した。

親しい人に配り、あとは手元に持っておこうと五十部ほど刷る予定だったけれど、色々な方の助言をうけて、百部刷った。ネット上で何部か売れたのは予想外だったけれど、それはそれで嬉しいものだった。

形になり、何度か読み返した。最初は「うしろ」を振り返るようにして読んでいたけれど、いつしか「まえ」を見るために読み返すようになった、羅針盤のように。読むほどに、自分のいる場所を確認するとともに、いよいよ進みたい方向について色々の考えが去来し、書けなくなった。というべきか、あるいは書かなくなったというべきかもしれない。

当時、書きたいと思うものは書けたし、既存のさまざまな「わく」に嵌ることなく、やりたいようにやれたとも思う。けれどここから先は、そう簡単に進むことはかなわないような気がして、いまこうして立ち止まっている。といって、休息をしているわけではない。件の細菌の大騒動の中で筆をとる余裕のないこともあったけれど、それはどうやら乗り越えたし、鬱もいまはだいぶ楽だ。やはり書けないのではなく、書かないのだ。

書かないで何をしているかというと読んでいる。ひたすら読むというのではなく、なんといおうか、ぼくの手にある羅針盤にてらして方向の合うものを見つけては、「その作者がどのようにそれを書いたか」を紙面から嗅ぎとってやろうという読み方なのである。なので、読み終えたものについても、話の筋などは覚えていないし、読書感想文も書いていない。読んで嗅いでは捨てていく、そういった読み方をしている。

どう生きて、どう書いたの。それがいまのぼくの関心事のようなのだ。

言葉の使い方を学ぶために読むということも、あるいは必要かもしれないし、比べる必要もないけれどあえて「世間」の作家とくらべれば、ぼくにはそれが圧倒的に不足しているだろうことも前々からわかっていた。でも、言葉の使い方はもう知っている。このやりかたでいくと決めた。そのうえで学ぶ必要がないと言い切るわけでもなく、学ぶのもよし、けれど、なぜその言葉を使ったかを考えるほうが、いまのぼくに合っているのだと、なんとなくそう思う。

 

次の本で最後かもしれない。そう思うと、焦りもうまれる。けれど同時に、急いではならないとも思う。乾坤一擲、というと大げさかもしれないが、「楠」はそういった性格の作品ではない、あれはジャブだし、肩慣らしでもある。次に撃つのがぼくの渾身の一撃にならなくてはいけない、そう感じている。そうでなければ「楠」は無駄に、ただの紙屑になる。とはいえ、「楠」という形になってしまったものにとらわれている部分もある。そこからの脱却をはかるという意味でも書かないということを選んだものかもしれない。

「読まないと書けない」という言説には半分賛成で半分反対。資料など、自分の人生で触れたもの見たもので十分だろう、という思いが昔から強くある。けれど、よく読んだ人のほうがよりよい作品をうみだす可能性を広げられるということはしっくりわかるし、さもありなんとも思う。でもいまぼくがいろいろ読んでいるのは、資料を漁っているのでもないし、文章を真似して訓練しようという種類のものでもない。すでにこの世にないおおくの作家と「対話」がしたくて読んでいるのだと思う。

そうしてぼくの作品が、誰とどういった対話をすることを望んでいるのか、考える。なぜ、誰に向けて、書くのか。この書かなければという欲求はどこから生じて、どこへ向かっていきたいのか、それを考えたり、思ったりしている。

 

コロナという名前の美しさとは正反対の救いようのないこの惨禍、度し難い政治屋たちのこそこそした動きにあわせて出したりひっこんだりされる「緊急事態」宣言、強行された五輪、選手の叫声とそのうらではじかれる算盤の音にかき消される無数のちいさな声、これは時代なのだとようやくぼくにもわかった。いつか先生が珈琲をのみながら、ぼくともうひとりに話してくれたように、ああ、なるほど、これが時代というものなのか、そう感じるようになってから、読む本も変わってきたように思う。

ぼくは明治を知らない、大正を知らない、戦前も戦後も知らない。昭和生まれだけれど、実は昭和は知らない。狂乱の平成と、この惨憺たる令和だけ、ぼくはその一端だけを垣間見ているに過ぎない。それも、書かなければならない、そう思うようにもなってきたのだ。すると食欲が体に必要なものへおのれを自然に導くように、ぼくの手には鏡花や秋声などが降りてきた。かつて読んだきり本棚におさまっていた詩集が、本自体が飛び上がるようにして、ぼくの目の前に降りてきた。そうやっていまの読書がはじまったように思う。

さて、いつ書くやら。正確にいうと、もう何千字かは書いてあるし、それらをとくに悪いとも思っていない。でもそれらを磨く気にも、広げる気にもまだまだならない。ならないなら、しない。というわけで、今年の上梓の予定は未定となり、ぼくは今日も本を読む、草を刈る。そうやって生きている。とりあえず。