木曜荘

ものかきの日記

脳内散歩

もっとすなおに、もっと自由に、と思う。

文体の習得だの訓練だのと聞いたことがあるけれど、そうしたときは、はぁそんなもんでしょうか、ほどに思っていたものだった。今思ってみると、文体などというものは、逃げようとしても逃げ切れぬ、おのれの影法師のようなものなのではないか。

無駄を省いて、虚飾を排して、とことんすなおに、どこまでも自由に描けるようになって、そのときにそこに残っている、しんぼう強い女房のような、影のような、悪癖のような、どうにもならないもうそれは自分自身の一部でしかない、そういうようなものを文体と呼ぶのではないかしら。というかぼくはそれをそう呼ぶことにしようと思う。

そうであれば、訓練というのは削ぐことだ。自分になっていく、近づいていくということだ。ことばをどんどん捨てていくことだ。裏切っていくことだ。そうして、我我己己自分自分だけになって、まわりになんにもなくなってしまって、ことばだけが宙に浮かんでいるようなところへいけば、たぶんそれはぼくの成功だ。人は知らない。

 

与えられた原稿用紙に書いてちゃいけないし、用紙が与えられるのを待っていてもいけない。ぼくの作品ではなくなってしまう。用紙などいらず、枠などいらず、ただ思うように、いいように、すきなように書いていきたい。

もっとすなおに、もっと自由に。

こう書けば答えに近い、こう書けばきっと褒められる、こう書けばこころに届く、そういう書き方をしたくない。それが誰もやったことのないことであろうと、誰もがやっていることであろうと、やりつくされたものであろうと、ぼくにそれが必要ならそうするまでで、誰の真似もしやしないし、誰に似るのもおそれはしない。

自由に、というのは言い換えれば、孤独にだ。本を読んで多くの作家と語り合い、現世で会った人たちのことばを聞き、自分の目でものごとを見、触れ、味わい、そうしてそれらをみんなすっかり棄ててしまって、忘れてしまって、たったひとり、筆をとる。道などないし、標識などない、そもそも到達点も、終点すらもない。行方などしらない、しるものか。ことばは自由だ、どこへなりともいけばいいし、いくべきだ。ぼくの知らないところまで翔べ。

ことばで人を斬らない、殴らない、撫でない、煽らない、殺さない。かつてぼくはことばで人を殺すほどのちからがほしいと、本気で思っていたけれど、いまではまるでちがう考え。ぼくのことばは宙にあれ。画面になく紙面にもなく、インクの描く文字の上にもない、宙にあれ。誰かの網膜に、誰かの胸に届けでもない、宙にあれ。そう願うようになった。誰が読むとか知らない、興味もなくなった、読まなくていい、書けばいい。誰に知られなくてもいい、残ればいい、死後まとめて焼いたりしないで、どこかの本棚のすみに残ればいい。誰も読まなくたっていい。宙空にことばがあればいい。

自分が生きた証としての、かたちとしての本、そういう考えはそれでいいと思うし、かつてぼくもそういうものだろうと思っていた。でも本に命をたくせるか。大切にすれば百年だってもつけれど、燃やせば燐寸ひとつで灰になる。本というかたちに託すことができるのか、ほんとうに。ちがう、本はぼくのことばを伝えてくれる、繋げてくれる、残してくれる装置なんだ、それそのものに価値はない。そこに託すのではない。なにが違うのと問われたら答えられないかもしれないけれど、それがとても重要な気がしてならないのだ。あくまでことばに、すべてを託して、委ねる、そう考えれば、むきあう対象がことばになる。本を思えば、対象はかたちであり、それを読む人たちだ。それじゃ書けない。いつまでも書けない。

もっとすなおに、もっと自由に。

ぼくはこの世になにも残すことができない。名も、跡も、なにも。ぼくが死ねば、ぼくにまつわるすべては朽ちる、棄てられる、そうなるはずだしそれでいい、なにも残りはしない、ことば以外に。百冊刷った本の中に、ぼくのことばがある。そしてそれをまた次の百冊につづけていくだけ、死ぬまでそうするだけ。なにも残せなくていい、ことば以外。

 

ずっと、生きていて辛かった。書いてるとき、すこしそれが薄らいだ。和らいだ、気がした。書くのは苦しいけれど、それを読むとき、すこし胸が弾むのだ。生きていける、ほんのすこしだけ、そう思えるのだ。