木曜荘

ものかきの日記

木曜荘

『欅』の上梓によって貯金はまた底をつく。

生活と、製本以外に金銭を使わない日々が続いている。贅沢を好む性分ではないことが救いといえばいえる。暮らしや仕事のために欠かすことのできない出費、それ以外は財布の紐をきつくしぼっている。本をつくることがぼくの生きる意味だし、目的でもあるから自然そうなる。

 

次は詞華集である。つまりはいわゆるアンソロジーなのだが、その言葉を忌避しているのは、自分が英語を理解していないからだ。理解しないままに使用するカタカナ語というものが好きではない。あとは私家本と音の響きが近いこともあり、この詞華集という言葉が気にいっている。

題名は『蕾』。作品はなべて花となる可能性を秘めた蕾のようなものであるという思いから名付けた。花として開くのは読者の手によるのだ。誰かの花となればいい、そうした願いをこめてぼくはものを書いている。

第一号の主題は「蝶」。モチイフとして使用してもいいししなくてもいい、という曖昧な主題。題に縛られてしまうのはおもしろくないので、そういうことにした。自由に書きたかったし、自由に書いてほしいと思ったからだ。

参加作家は自分を含めて六人。製本を依頼する予定の方が、最終的に本を形にするということを考えれば、正確に言えば七人ということになる。誰も誰にも似ていない作家ばかりだ。それらの作品を読める日を楽しみに今を生きている。

第一号といったからには、二号も三号も作るつもりでいる。そのために働いている。金を稼ぎ、よけいな出費を取り締まる。すべては本のためだ。そうして本という形を求めることによって、どうにか生きていけると思えるようになってきた。これがなければぼくは動く死体に過ぎない。

 

「木曜荘」という名にもすっかり愛着がわいた。活動を名づけるというのは実におもしろいことであった。詩を書いている、とか、詩人であるとか、小説を書いている、とか、様々な説明をいままで無理にしなくてはいけない場面があったが、この名前があればそれだけで足りる。本を作っています、と、この一言だけで済むようになったのは、実はこの木曜荘という名前のおかげではないかしらとさえ思う。

長年自分のなかで悶着を起こしていた「詩なのか小説なのか」ということなどどうでもよくなった。ぼくの志向する活動というのは、ただ書き、それを本にしていくというだけのもの。その本という形がすべてであって、説明など要らない。そのとき、自分の筆名以外に「木曜荘」という名のあることが、なぜか役にたっているように感じられるのだった。おおきな箱庭のようなものであろうか。ぼくはそこでめいっぱい自由に遊ぶことができるのだ。これは意外な発見だった。

木曜荘は「場」でもある。作品を持ち寄る場、それを発表するための場であると思っている。書くものの次に、これを今後は大切にしていきたいと思うことが、この頃多い。同年代の、いろいろな活動をしている人たちを見ては、そう思うのだった。

昨日夜学バーの店主とも話したが、ぼくのための場というものは胸のなか方寸のうちで充分であり、それ以外の場は木曜荘で足りる。木曜荘はあるときはぼくの頭蓋骨の中身そのものであり、あるときは人とぼくとを繋ぐ透明の糸であり、あるときは作品をおさめるための本になるのだと思われる。

残りの人生をせいぜい楽しんで生きようと思うほどに、この木曜荘というものが大切な、不可欠なもののように思う。名づけて正解であった。名はいつか体をなすのだろうか、そういうものであるのかもしれない。