木曜荘

ものかきの日記

2022/05/31

日曜の興奮と疲れをひきずった月曜日、あたらしい現場で延々と草を刈る。広い。ふだんの庭仕事とちがい、元請の(監視の)目があるので、長袖をぬげずに鬱陶しい暑さとも戦う。今朝は雨、草刈の天敵、刈草がどんどん濡れて重くなるのだ。根性をひっぱりだすしかない。

 

夜は文フリで買った本を読んだ。疲れのせいですぐに眠ってしまったけれど、思うことはいつもだいたい同じ。「出版社さんてお仕事してるのかな」という感想。才能は世の中にこっそり溢れている。それを見つけ出す眼が出版社には欠けているのじゃないかしら。それとも、ぼくの思うよい作品、すばらしい言葉、文章、歌というものが、いわゆる「売れる」ものではないとでもいうのか、だとしてもそれはとてもいいものにはちがいない、すくなくともぼくにとって。

「売れるもの」を売るのは簡単だろう、「いいもの」を売るのが本来の商売なのではないのかな、とか勝手なことを思う。賞をもうけて足切試験のようなふるいにかけながら作品を集めて、上から「ああこれは売れそうだね」なんて怠慢じゃないのかな。…ぼくには関係ない話だけれど。

とにかくよい作品に巡り会えた。出版社も編集者もいないところで、ぼくらは自由に作品を読みあうことができる事実があって、それをさいわいだと感じる。必要のないものは使わなくていい。出版社に媚びることも賞レースにこだわる必要もないのだ。本はつくれる。

 

ぼくも今回の「欅」を上梓したら、木曜荘として活動を本格的にはじめたい。けばけばしい装飾や、商業的な広告をぬきにして、ただ文章だけで立つような、そういう本をつくりたい。売れなくていい。誰かにふかく突き刺さればそれでいい。

夏のうちに「欅」を形にしたい。それから秋冬で最初の詞華集をつくりたい。自分には締切が必要だけれど、人に締切をもうけたくないし、ぼくの稼ぎの多寡も影響するので(苦笑)不定期になるだろうけれど、年に一冊か二冊はつくれたらいいな、と思う。

ほんと、そのためだけに働いている。生活、金を食う、すこしでもあまるように暮らす、あまったものを本にすべて流し込む。仕事のあいまを縫うようにして、書いて消してをくりかえす。四十を前にしてようやっと生き方がわかってきたような気がしている。