木曜荘

ものかきの日記

循環

「欅」推敲おわり

 

読み返せば「不完全」ではあるけれど、でも完成されていると考え、ほぼ加筆修正なしで、このまま本にする。言いたいことをさらにつめこむか、余白として残すか迷ったけれど、後者をとる。選択には後悔がつきものだけれど、できることなら後悔よりも次への踏み台にしたいと思う。

一度傾きかけた家計を、もういちど危機に陥らせる可能性はあるけれど、妻がつよく反対しなければ、もう製本の過程にすすみたい。仕事の量は確保できたから、あとは節約しながら馬車馬のように働けば、なんとかなるだろうと考えているが、甘いかな。

税理士への支払いや車検や労災やら、払うものが重なっているいま、製本の十万は本当に大金だ。ホームレスになりかけた友人に貸したお金が返ってくれば、まだ楽にはなるのだけど、あまりあてにはできないし、かといって資金面の問題で止めてしまえば、最適な時というのはいつまでもやってこない気もしている。妻と相談しなくてはいけないな。そういう面では「楠」のときは余裕があった。自分のことなのに羨ましいと感じるのは不思議。他人がものしたようにさえ思えるときもある。

いろいろ不安定ではあるけれど、この不安定さも「欅」の要素のひとつなのだから、このまま形にしようと思う。あくまでも「私小説」ではないと思っているけれど、なんというかそういう本当の温度も乗せていきたいとは思っている。無意味なことかもしれないけれど。

 

創作と仲間

 

この頃、起きてすぐこうして日記を書くのがきまりになってきている。読んでくれている人がどのくらいいるのかわからないけど、いつかの自分が読み返せるように書いているのと、もうひとつおおきな理由は頭の整理だ。昨夜までの思考を、朝のまだあかるい頭で考えながら書いてまとめている。ひとが読めばつまらない日記だとは思うけれど、自分にはよい習慣なのでしばらくは続けていきたい。

読んでもらう気がないのならノートに書けばよく、こうして公開する必要などないのだから、どこかで、誰かに読んでほしいと思っているのだろう。とくに感想などなくとも、誰かが読んでいると思いたいのだろう。顕示欲や承認欲求とはちがう、なにかべつの欲求がそこにある気がするが、正体はわからない。仲間がほしくて、山のうえから大声で呼んでいるような感じかもしれない。ここにこんなやつがいるぞーって。こだまがかえってくるのをすこしだけ期待しながら。

 

ぼくはほんとうにすばらしい師に恵まれている。なのにずいぶんと欲張りだなとは思うけれど、やはり「仲間」はほしい。先生も「仲間」とは言えるかもしれないけれど、やはりおこがましいし、それ以上にぼくにとっては「先生」であって、遠い道のはるか向こうにおられる、目標のような存在なのだ。

創作という一点を軸にすれば、仲間と(勝手に)思える方は何人かいる。何人かいるのだ、もう充分に幸運だ。だけどたとえば、同じような本を好む仲間、同じような文章を書きたい仲間、切磋琢磨して書いていける仲間、というものは常に求めてしまう。ひとりが寂しいとかではなく、互いに刺激を与えあえる関係がほしい。いや、すでにあるのだけれど、それを大切に大切にしつつ、さらに広げていけたら最高だなと思ってしまう。ほんとうによくばりだ、でもたぶんこれが本心だろう。

 

ぼくはいままで本当に長いこと、殻の中にいた気がするのだ。守るべき才も持ち合わせていないのに、他を拒んで、じっと身をかがめて同じところにずっといた。別にその生き方だってひとつの選択だから、良い悪いではないのだけれど、いまのぼくは外へむかって翅をひろげてみたいと願っているんだろうと思うのだ。そういう欲求に気づいたので、そう生きていこうと思う。

なかなかむずかしいことではあるけれど、出会いを引き寄せられるように、ここにこうして書き続けていこうと思っている。商いを志向するのではない、純粋な文学を、あるいは他の表現でもって、自分をあらわしたいとつよく思う人たちと、ぼくはたくさん話がしたい。そしてよりよい作品をつくっていけたら、それだけでも生きていける。そう思うのだ。