木曜荘

ものかきの日記

完成なのかも

完成なのかもしれない。

言いたいことを全部つめこめたかとなると、あやしい。下書きのまま、使われなかった文も多い。それでも、これは完成なのかもしれない。

もっと肉をつけることもできるし、もっと削ることもできる。でも、それをしないほうがいいような。ところどころ歪な箇所もある、あるけれど、それもそれで、そのままのほうがいいような気がしている。

推敲に時間がかかると思っていたのだ。うんと時間がかかるのだろうと。その間に製本の資金を貯めようと思っていたのに、資金の貯まるより早く、推敲の必要を感じなくなってしまった、それに驚いて、疑っているのかもしれない。

いまの自分にはこの程度書けていれば及第だ、ということでもなく、これで完璧だ、というものでもない。不足はたくさんあるし、書きたいこともまだあった、でももうこれ以上原稿に触れたくないような気がするのだ。何かを損なってしまうような。

余白。それかもしれない。

 

均された文章よりも、不陸のあるでこぼこした文章を味わってほしいとも思う。それはつまり感情のことで、「欅」の後半にえがいたものは、ほとんど感情といってもいい。人物それぞれの感情をそれぞれの声で語っている。その対話も、当初予定していたより格段に文字数がすくなくなった。なので、もしかしたらなにも伝わらないかもしれないという危惧もある。でももし、何かが伝わるのであれば、文字数は少ないほうがいい。その余白にやはりこだわりがある。

コップの水。ぼくには充分と思える水位。でも満杯ではない。満杯にするほうが、読者は喜ぶだろうか。あふれるほどのものを好む人もいるだろう。でもそれはぼくにはやはり関係ない、というかぼくの作品には関係ない。まだ注ぎ足せるからといって、必要以上に注ぐというのもおかしな話だろう。ぼくがそれで充分だと思うのなら、それでいいのかもしれない。独りよがりというのなら、いずれもがそうだろう。

 

どのみち、まだ資金は揃わない。あてはあるけれど、それがいつになるかは読めない。その間に読んだり、放置したり、まだすこし時間があるわけだし、焦らずにいようか。このごろどうも生き急いでいる感じがあって、よろしくない。なにを焦っているのやら。おちつけ、自分。