木曜荘

ものかきの日記

『欅』入稿、プチパリにて

入稿

昨日は深夜に目がさめ、最終稿を印刷して、また眠った。いつもよりすこし遅く起きてから、それを読んだ。誤字脱字も見当たらず、文章もいい具合に削られていて、とりあえず本当の脱稿となった。おおきな達成感を覚えた。とても細かい話をすれば欠点はいくつもあるが、いまの時点(この二年間)での最高点に近いものは作れたと思うのでよしとした。

印刷したものとデータを持って、プチパリへ。『楠』でお世話になった印刷屋さんと打ち合わせ。前作と同じ作りにしたかったので、打ち合わせはすんなり終わる。「こことこことは同じようにお願いします、ここはこういうふうに変えて…」という感じだったので話が早かった。

それが済むと、次の詞華集について少し話をした。資金もまだまだなので、細かい見積の話はしていないが、まあそんなに安くは上がらないな、と感じた。自分のやれることを増やす必要性を改めて感じた。インデザインなどのお勉強と、PCの新調など、課題が浮き彫りになった。

印刷屋さんの帰ったあとも、静かなプチパリのカウンターでひとりうんうん唸っていた。詞華集をどう作ったものか、その費用をどうつくるか、自分は何をしなければいけないか、などなど。PCなどに弱いぼくができることは少ない。その分お金をかけるのか、すこしでもできることを増やすのか、うーむ…といつまでも悩んでいた。

 

めぐりあわせ

するとカウンターの隣に座っていたNさんから声をかけられ、たったいま『楠』を読み終えたということで、できたてほやほやの感想を聞かせてもらった。Nさんは写真展をプチパリで開催中で、先週写真を見にきたぼくは、様々なお話をうかがって共感することしきりだったので、本を一冊おしつけたのだった。それをたまたま、昨日の在廊中に読んでくれていたのだ。その横で次の本の打ち合わせをしていたのはなかなかおもしろい状況だった。

作品の内容について、余白(画面のまた文章の)について、あれこれとお話をうかがい、ぼくからもいろいろと説明した(甲本ヒロトの話などもかなり盛り上がったけれど脱線ではない、関連している話、これがまた楽しかった)。

新しい読者さんが生まれた瞬間にお話できる機会というのは、今後もうないのではないかと思う。とても得難い体験をさせてもらった。

卑近なことばかりを題材にしているので、この登場人物はご自身ですか、という質問から始まるのはいつものこと。そうですと答えつつ、でもいわゆる私小説ではないというお話をした。小説でも詩でもないものを書きたかったという説明を、余白についての話のときにした。石垣りんさんの詩集のような余白を目指した。けれど『楠』は「詩集」でもないので、便宜上「短編集」としたけれど、小説とも思っていない。つまりただの作文なのだという話をして、それをとても理解していただけたので嬉しかった。

余白についても読みやすいと言っていただけた。画面的にも文章的にも余白をおおく取ることには時間を費やしたので、これもとても嬉しかった。何ページにも及んでだらだら書いたものを削って削って一行そこらにできたときの快感を思い出したし、そうしてよかったとこころから思った。

印刷屋さんとの打ち合わせを終えてすぐに帰っていたら聞けなかった話だし、そもそもNさんが「今日読もう」と思って持ってきていなければ起こらないことだった。めぐりあわせというのは本当におもしろいと思った。

こうして感想を聞かせてもらっていると、書いてよかったと心底から思うし、これからもずっと書いていきたいと思うし、もう書きおえたものを早く形にしたいと思う。発表はネットではなく本でと決めているので、発表までにおそろしく時間がかかるのがつらいところだが、それでもこうして一年か二年に一度でもいいから本をつくり続けたいと強く思った。

 

甲本ヒロトがなにかの番組で「今が一番たのしい」という旨の発言をしたらしいとNさんから聞いた。Nさんはいまブルーハーツを掘り下げているところらしいが、ぼくからするとブルーハーツは青春時代のもろもろの感情の代弁者であり、精神安定剤だったことなどを思い出す。やさしい歌詞に、かっこいいメロディ。とても好きで、毎日聴いていた日々を思い出しながら、帰り道すこし口笛など吹いてみたり。『日曜日よりの使者』。“このまま どこか遠く 連れてってくれないか”…

という話をしたのも、いまのぼくはもう『楠』をおもしろいと思えないという話をしたからだった。読み返すのは苦痛とまではいかないが、ひどく退屈で読み返せない。物足りなさが強い。『欅』のほうが面白くできたと感じるし、それ以上にいま書いている『蕾』のほうがさらによい。もちろん愛着はあるし、否定もしない。「その時点」でよいと思うものを作ったのだから。

Nさんの写真にしてもそうだけれど、撮れば撮った瞬間から、書けば書いた瞬間から、それらは過去になる。現時点からふりかえった位置にそれらはある。でもぼくらは過去にいきるのではなく、いつでも現時点に立っている。そして現時点がいちばんよいと思っている。だから過去の作品はいまよりすこし物足りない。進んでいるから。当たり前のことだろうとは思うけれど、それをしみじみ感じたのだった。写真と文章の共通点をいくつも数えたけれど、それはとても新鮮な発見だった。

『欅』もその大部分を一年ほど前に書いた。その後一年書けず読めずなにもできない日々が続いたので、『楠』のように半分はもうはるか過去のものになっているが、それでも今を詰め込むことはできたと思う。現時点でのよいもの、として。

これからもずっとそうして「今」を切り取りながら書いていき、本にして背中にたくわえていくのだろうと思うと、それはなんとも楽しい道中ではないかと感じた。草をかきわけて歩いていき、ぼくの歩いた足跡のようにして作品がぽつぽつと残されてゆくのだ。これはおもしろいことだ。そうやって生きていけたら幸せだろう。

 

帰って泥のように眠った。とても疲れていたがなんともいえぬ快い疲れだった。