木曜荘

ものかきの日記

プチパリ、写真展、水曜荘

ぼくらはひとりなので、集まることができる。

今回はじめての詞華集をつくりながら、そんなことを感じた。ぼくらは、ぼくや、私であって、いつもぼくらではない。我々ではない。だから集まれるし、最高の一冊が生まれると確信している。詞華集に載せる予定の文章と重なるから、これ以上は書かないけれど、そういう感じ。

 

昨日は午前中に働き、早く済んだので昼食の後すこし昼寝して、元気になったのでプチパリへ行ってきた。先週も行ったけれど、昨日は写真展の初日だったし、こころの栄養が欲しかったので、ふらふらと迷い込むようにおとずれた。

 

そこで写真家のNさんから色々と話しを伺う。「生業は仕立て屋だけれど」という言葉にとても共鳴した。ぼくもそう。生業は植木屋だけど。だけど、なのだ。それに「好きだから撮っている」という言葉も、そっくりそのままぼくの言葉でもあった。ぼくもまた、好きだから書いている、そして本にしているだけで、評価がほしいわけでもない。ただ読んでほしい、自分で読みたい、そのために書いているのだ。あんまり共鳴することが多かったので、帰りがけに自著『楠』を一冊押しつけるように渡した。この頃は名刺がわりに持ち歩いている。

(きっと売れはしないだろうから50部も刷れば充分だと思っていたとき、先生が色々な人に渡したりしたくなるから、多く刷っておいたほうがいいですよと助言をくれた。そういうものだろうかと思いながらも、それに従って本当に正解だった。この人はきっと「読んで」くれるだろうと思うような人と出会い話していると、押しつけたくなるのだ。家で漬物石のように寝かしていても仕方ないし。)

ぼくという人間の玄関には便宜上、植木屋という表札をさげているけれど、中に入ってくれたらもうすこしかわったものがありますよ、と胸の内で思っている。けれど、ことさら自分を作家として売り出す気もないし、作家というのは実に便利な言葉なので借用しているけれど、これだってぼくの本当の言葉ではない。詩人でもないし、小説家でもない、プロとかアマとか興味ないし心底どうでもいい、ぼくは単に森侘介でしかないし、ぼく自身文字の羅列とその余白でしかないのだ。それが心地よいと感じる、そういう人間がぼくなのだ。

そういったことを、写真を眺めながら語り合えた。有意義な時間を過ごしたので「今週は休みなしか…」という思いは消えた。」

 

それから、オーナーから水曜荘に関する話を伺った。酒井徳男の話はいつも断片的で、聞くほどにもっと知りたくなる、いったいどんな人だったのだろう。勝手に想像をしては憧れている。ぼくにはとても真似できないが、ぼくにできる方法で木曜荘として活動をしていきたいと思っている。いつかオーナーが水曜荘に関する本を書いてくれるだろうと期待しながら。とはいえどんな人かということには一応の答が存在している、作品として。ああいうものすごい作品をつくってしまえる人なのだ、酒井氏は。きっとおもしろい人だったのだろう。

ぼくの本がのこって、それをいつか読む人が、この人はどういう人だったんだろうと思うことがあるだろうか。そんな夢想をしながら、やはり本として遺すことにはとても大きな意味があると改めて思った。なので、今日は雨の月曜だけど、負けずに頑張る。