木曜荘

ものかきの日記

絵のこと

昨日は朝のつよい雨のために現場が流れたので、今日行く予定だった個展を訪ねてきた。鉛筆・水彩で描かれるひかりの世界だった。やわらかくて、あたたかな作品ばかりで、そのどれもがうつくしく生き生きとしたひかりに満ちていた。

 

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味戸ケイコさん個展。

東京京橋のスパンアートギャラリーさんにて、17日まで。ご興味のあるかたはぜひ。

 

味戸先生はとても気さくに話しかけてくださったので、すこしだけおしゃべりさせていただいた。どうして個展を知ったのか訊かれたので、ぼくの先生がTwitterでお知らせしてくださったのでそこで知ったことをお話した。先生の作品のうち、ぼくがもっともくりかえし読んでいる本を携えていったので、その本の表紙、カバーに描かれている味戸先生の作品についてもすこしお話をうかがった。どういうご関係と訊かれたので、勝手に私淑してくっついてまわっている者です、とお話すると、文才もふくめてとても魅力的なかたですものね、と言われ、こころのなかで首が折れるほどに首肯しながら、なんだか感動して泣きたくなった。それから帰って眠るまで、ずっとぼんやりとしていた。

 

 

ぼくは絵が描けない。漫画、油絵、鉛筆画、若い頃いろいろ試したけれど、まったく駄目だった。頭のなかに絵はあっても、それを紙の上に再現するための能力がまったくないのだった。ぼくは絵をあきらめて、それを言葉で表現するようになった。それからいまに至るまで、けっきょく悪戦苦闘のくりかえしではあるけれど、絵を描いていたときほどの絶望感はない。うまく書けていると思うこともまだないけれど、それでも書き続けていこうと思える程度ではあるので、それでよかったのかもしれない。

だからぼくは絵を見ることが好き。といっても、先生と出会うまでは、絵は本で眺めるもので、たまに美術館などは行くとしても、画廊などというところはぼくとは縁のないところだと思い込んでいた。長野順子先生の銅版画がすきで、先生にくっついて連れていってもらったのがはじめての画廊体験で、全身に電気が走るような感動を覚えた。やはり絵は自分の眼でじかに観るのがいちばんよいのだと知った。

そして「どうしても自分の毎日の生活の中にその絵がほしい」と思うようになった。それもまた先生の影響だろう。初めて絵を購入して書斎にかざったときの感動はたぶん忘れることはないと思う。これからずっと死ぬまで、ぼくの生活の中にこの絵画たちはよりそってくれるのだ、という感動があった。(ぼくの稼ぎでは何十万の絵画はさすがに買えないので、そのほしいと思った作品が、すこし節約すれば手が届く金額だったのは幸運だった。)

 

これからも興味のある個展は可能な限り足をはこんで、自分の眼で直接鑑賞させていただこうと思う。ネットで検索すれば、かなりの数の作品を見ることはできるけれど、あれらはほんとうにデータでしかない。美術館にいけばわかるように、絵は「そこにある」ものだし、声がある。むかいあってはじめて見えるものもあるのだろうと思う。

そうしてすばらしい作品と会ったあとは、かならず「ぼくも書いていこう」と思わせてもらえるのだった。不思議なもので、絵のもつエネルギーが目を通して心身にくまなく充填されるような感覚がある。たとえば香水のかおりを深く吸い込んでもそれが血にまざって体をめぐっていくようなことはないけれど、絵はちがう、絵は体中をめぐって駆けていく。最後にすとんと落ち着くところ、そこがこころなんだと思う。そしてそのこころでぼくも作品をつくっていくのだと思う。そうやって繋がっていくものなんだろうとこの頃よく思う。

 

雨で予定がずれたおかげで、味戸先生ともお話ができたし、予定のずれることが苦手なぼくだけど、昨日は雨に感謝したくなるような一日を過ごせた。

それから、個展に向かう途中の電車の中では、「楠」ご購入のおしらせが届いて、座席の上でぴょんとちいさく踊った。うれしい。朝、すこし宣伝させていただいたので、ブログかTwitterを見てくださった方なのかもしれない。これもひとえにご感想をくださったみなさまのおかげだ、と思うとあちこちに頭をさげたくなる思いがした。帰ってからポストまで走った。もっとよいものを作ろう、と思った。