木曜荘

ものかきの日記

鳥籠に少女を飼う

次に書きたいものは、蕾、と題名だけ決まっている。中身はまだ書いていない。いくつかの断片が箱のなかに断片のままほうりこんである。その前に書きたいものがあるので、そっちが形になったら、それらの欠片を繋げていくことになるのだろう。

 

ぼくは物心ついたころから、自分の身体的性が男性に分類されることがほんとうにいやだった。男性的な体格に「恵まれ」、一族待望の男子として生まれたぼくは、父から「男とは」こうして生きていくのだと叩き込まれた。なぜ叩き込まれたのかといえば、ぼくが「男らしく」なかったからだ。

友人は女性も男性もおなじほどいた。年齢を重ねるほどに、女性の友人のほうが多くなったし、女性といるほうが気が楽だった。そして年々、男性を嫌う気持が募っていった。思春期のおわるころには、男性恐怖症といってもまったくおおげさではないほど、その気持はぼくの背中におおきくかさばっていった。

ぼくは女性としてうまれて女性を愛するはずだった、いつかそう気づいた。恋の対象ではない女性に対して、恋とは別のなにかとてつもない強い引力が働くことが多くあり、それらの解としてその答えが導き出されたのだった。それはかんたんにいえば憧れだった。恋する女性と、憧れる女性とがいることに気づいたときは、ある種の開放感に満たされて、翼がはえたようにさえ思われた。

ぼくにはこうなりたいという自分の理想のすがたがはっきりとしてある。それはいままで憧れ続けてきた女性たちが共通してもっているものの集合としてのすがた。若い頃は、人の目を欺く「男性」でいられるぎりぎりの範疇で、そのすがたにすこしでも近づこうという努力をしたものだった。女性的な服飾に興味はなかったので、やや中性的な服装をし、髪もすこしだけ長く、体もしなやかで美しかった。女性だけではなく、男性に想いを寄せられることもしばしばあった。それは男性嫌悪に拍車をかけるだけだったけれど。

ここには書かないけれど、あることをきっかけにぼくはぼくの探求をやめた。精神はだれの目も届かないから自由だが、肉体は社会からの監視にさらされている(とその時は思っていた)し、なによりどれだけ近づこうとしても、ぼくは女性にはなれないからだった。近づくほどにむなしさが募るばかりだったからだ。

それから体を鍛えはじめた。女性のいない現場仕事を選んだ。そこでも「オカマ野郎」などという汚い言葉を吐かれたこともあったが、それらをのりこえて、いまのぼくを女性的、あるいはオカマ野郎と思う人はあるまいと思う程度にはなった。そこには血を吐くような鍛錬があった。男性性への嫌悪はいまだに根強く残っているけど、それを感じずに済む範囲は確実に拡がった。

そうやってぼくは死んだ。葬った。肉体を社会的な性別である男性に近づかせることで、精神の嘘を深くしていった。しかたない、それでいい、と思うこともあったけれど、いまだに憧れるあいてはいつでも女性だし、嘘をつき続けていると感じている。

だから、創作という「嘘」の場所で、「本当」の自分を描いてみようと思っている。その題名が「蕾」。書くまえから、絶望している、うまく書ける気がまったくしない。でもたぶん挑むだろうと思う。ぼくはぼくのなかの少女を救いたい。自分で殺しておいて救いたいもないのだけれど、ほんとうに勝手なことばかりしていて、謝ったって許されることではないだろうけど、せめて弔いだけはしたい。

老いてゆくこの醜い男性的な体に、少女の住処はもうどこにもないけれど、心にはいまもいて、ぼくを内側からしずかに爆発させる。もうそれを無視することはできない。けれどぼくには書く以外の表現はない。だからいつか書くだろう。ぼくとぼくのなかの少女のお話。