木曜荘

ものかきの日記

推敲と詞華集

寒い朝。春はまだか、と思いながら、この寒さもふくめて春なのだろうとも思う。日々の寒暖差には驚かされるけれど、なんとか元気にやれてるのでいい。

 

 

要るもの

 

使い古しの作業着が破けた。股のあたりが破けたので、これは新調しないわけにはいかない。経験上、縫ってもすぐにまた破れるのが股とふくらはぎなので、これはさっさと買うほうがいい。それから道具も買い直さなくてはいけないものがあるので、昨日はすこしお金を使った。

いま、ある絵を購入したくてお金をためている。それから、そろそろ推敲を終えそうな「欅」の製本の費用も。ぼくは高級車も金のネックレスもブランドの腕時計も要らない。ただ絵の、本のために節約して、コツコツお金をためている、そんないまの自分がきらいじゃない。自分をよく見せるためのお金の使い方はもうしない、自分をよくするためにだけ使いたい。いまぼくに要るのはあのすばらしい絵と、ぼく自身の本だ。

 

 

推敲

 

昨日からすこし読み始めている。原稿と離れる時間はもっとかかるかと思っていたけれど、案外「読める」ようになってきたかもしれない。

「楠」とはだいぶちがった書き方になったように思う。あれはあくまでも風景画のつもりで書いたけれど、今回はそうはいかなかった。前回は絵の具に溶かせる詩情をもって描けたような気がするけれど、今回は絵の具には溶かしきれずに浮き上がってしまう、あるいは沈殿しまうなにかがあって、その何かを書きたかったので、なんというか、泥っぽいものになったような気がする。美との隔たりはひろがった。読みにくく、分かりづらく、醜い文章になったように思われる。といって「楠」が美しかったと言うわけではないけれど(苦笑)

考えて、練って、書いて、読んで、また練って、直して、削って、そのどれもが苦しく、そしてその何十倍もたのしい。文筆なんていう言葉をぼくのような素人がつかっていいのか知らないけれど、文筆があってよかったと心底から感じている。

これは「欅」のなかでも書いたけれど、ぼくは人生は獲得したものと贈り物とでできていると思っていて、この文筆というものが、ぼくの人生で最大の贈り物だったと思っているし、天佑だとも感じている。これがなければもうとっくに駄目になっていただろうということは、おそらくまちがいないと思うのだ。

だから、どういう形かはわからないけれど、「欅」が終わってもそれは終わらずに、次、次、となにやら書いていくのだろうという予感があり、それがうれしい。そのたびに本として形にして、すこしでも遺していきたいと思っている。

 

 

詞華集

 

ぼくは幹事が苦手だ。なにかを主催するなんてぜったい無理。人をまとめたり、集団の方向を決めたりするのも無理。ほんとに無理、ていうかできない。会社員時代には部下(いやな言葉だよね)とよばれる人たちがいて、仕事を手伝ってもらったり、それぞれに作業を割り振ったりしていたけれど、あれもつらかった。人を動かしたり、それについて責任をもったりすることは、自分にはむいていなかった。

だけど、ひとつだけ主催してでもやりたいと思っているものがあって、それが詞華集。別に詩文に限らず、歌でも、絵でも、散文でも、なんでもいいんだけど、ぼくが知り合えた幾人かの作家さんの作品をあつめて、一冊に綴じたいという欲がある。

全体のテーマも決めず、好き勝手に書いてほしい気もするし、なにかテーマがあったほうがいいならそれもたのしそうだし、と妄想だけは何年もしていて、なかなか一歩が踏み出せずにいる(資金もまだないし)。これは単にぼくがそういう本をほしいと思っているからで、完全な道楽。でも作家さんにもそれぞれ都合というものがあるので、締切なんてもうけたくないし、いまから一人ずつでも声をかけていったほうがいいと思いつつも、ぼくの持病が今後どうなるかなんてわからないし、迷惑だけはかけたくないから、慎重になりすぎててなにも始まらないという・・・。でもいつかやりたいな。絶対たのしいはずだから(自分が)。

 

まぁとにかく、いまは「欅」でいっぱいだけど、やりたいことはいくつもあるので、どうにか生きていくことができそうにも思えたりするこの頃です。

こんなぼくなんかに関わってくれる皆さんのおかげです、ほんと。ありがとう。