木曜荘

ものかきの日記

2022/06/16

昨日は霧のような雨のなか現場を二件と、その他あれこれ走りまわった。手伝い現場のおよそ三日分を稼げた。忙しくなってきたと感じる。

細かい葉をもつ樹木の刈込、草刈などは雨だと作業がなかなかむつかしかったり、消毒なんかだとやる意味がまったくなくなってしまうので、基本的に雨が降れば植木屋は休み。けど雨だろうとなんだろうとできる作業もあるので、昨日は急遽伐採の現場をふたつこなすことにした。正解だった。能動的に仕事をこなせていることが快かった。昼過ぎには発生材処分(ごみ捨て)まで終わり、午後はのんびり過ごした。

今朝はいつもよりすこし遅く起床。三時ごろに目がさめてしまうこのごろの習慣をなんとかしたい。そこからもう一度眠ると、なにかすこし疲れる気がするのだ。といって起きていれば眠くてしかたないし…。運動不足かな。ぐっすり朝まで眠りたいものだ。

 

詞華集の原稿は、十頁にもみたない掌編がふたつできたきり、それ以上まだ手は入れていない。頁数的に、もうすこし膨らませてもいいとは思うのだけれど、無理に膨らませて無意味に長くする意味もないと思うので、そのままでいいとも思っている。集まった原稿を読んでみて頁数が足りないようならば、そこからもう一編追加するのでもいいのかもしれない。

参加してくださったみなさんの原稿を待っているあいだに、本の体裁など細かいことをひとつずつ詰めて考えていこうと思っている。あとずっとできなかった読書を楽しんでいる。いずれもとても楽しい。

『欅』もあとは印刷屋さんからの連絡を待つばかりだし、一度すこし創作から離れるかもしれないが、こうして読書を楽しんだり仕事に集中したりする時期なのだろう今は。やれることを日々やっていこう。まだまだ学ばなければならないことだらけなので、原稿が手を離れたいまが好機なのだろう。いろいろと学んでいこう。

 

昨日は小栗風葉の『戀ざめ』を読んだ。花袋の『蒲団』に影響を受けて書かれたらしく、ネットなどでは花袋と比べて論じられていることが多いけれど、題材は似ているかもしれないがまったく別物の作品として楽しめた。

中年の戀…。ぼくももう中年の域に入ったと人から言われるが、まだまだ十代の精神年齢なので、なかなかそれを受け容れられないが、たしかに身体的には老いを感じてもいる。でもやはりこの歳で恋を体験することができるのかは怪しい。若い頃でさえ、ただ一度の「本当の恋」に、あとはそれの模倣といった感じの「恋愛」をくりかえしてきたと思っていたし、もう恋はできないのだろうと思うとすこし切ないが、その分生きていく荷が軽くなったとも思っている、そのあたりがまたさみしい。

女性に恋する代わりに、文筆にたいして恋のようにのぼせあがっているという部分もあるのかもしれない。自分の作品にせよ、人様の作品にせよ。まだ見ぬうつくしい作品に出会えるか、その作品とぼくはどう交わっていくのか、そういう感じ。そのあと、小杉天外の『初すがた』をひらく。賑やかな開幕。どういった人々が出てくるのか楽しみ。

このごろは自然主義と呼ばれる文学の周辺をふらふらと散歩するように読んでみている。〜主義、〜派というものには興味がないのだけれど、どうやらぼくの好みはこの辺らしいなと思っている。ただ、やはり「〜主義」ではくくれないとも思っているけど。

 

読んで、書くことの楽しみ。これを知れてよかった。生きていける。