木曜荘

ものかきの日記

青い鳥より赤い鳥

…「私は、これまで世の中に出ている、多くのお伽噺に対して、いつも少なからぬ不平を感じていた。ただ話がされているというのみで、いろいろの意味の下品なものが少なくない。単に文章から言っても、ずいぶん投げやりな俗悪なものが多い。この点だけでも子供のために、いかにもにがにがしい気持がする。」…

(鈴木三重吉 処女童話集『湖水の女』 序文より)

 

ぼくは童話を書いているわけではないけれど、上の文章に共鳴をおぼえる。「お伽噺」を「作品」に、「子供」を「読者」にかえれば、それそのままぼくの意見とほぼなにもちがわない。

 

SNSとかいうものの発達によって、だれもが自らの作品を簡単に「発表」できる世の中になった。たとえば経済的な問題をかかえる作家にとっては、紙にせずとも「ネット上に上梓」できる、ほんとうに理想的な技術の展開された世の中なのだろうとは思う。

けれど。そこに顔がない、作家の責任がない、作家の矜持がないのは耐え難い。

アカウントは作家の代わり、出張所、広告塔、でしかないのに、むしろアカウントだけが先に歩いて、作家がどこまでも不在でいる、そういうのはぼくは好きじゃない。

 

作品があって、それを懸命にこさえた作家がいて、そうしてその作家の広告塔としてのアカウントがあるのであって、逆ではない。(そのアカウントの存在のおかげでぼくらは作品に触れやすくなったのはたしか、これはありがたく享受している、好きな作家の新作を知り、展示を知り、その一端に触れることができる、これはたしかに便利)

 

例の青い鳥のアプリ上で行われている、いわゆる「創作アカ」だの「界隈」だのいう概念には反吐が出る。己がじし作品をもちよりあってやたらに褒め合う、もろもろ忖度された点を付与し合う、フォロワーの数がステータスになり、それが作品に影響すると思っている…と、あげつらえばキリがないのでもう止すけれど、ほんとうにつまらない世界だと思う。

 

ゲーム感覚なのだろうと思う。(ぼく自身テレビゲームで育った世代だし、ゲーム自体は嫌いじゃない。けれど、)作品はいつでも真剣勝負で、遊戯ではない。魂をこめるためにことばを探すし、表現のために命をかけたいと思っているし、だから人と競うための道具なんかじゃないし、つまらない優越感にひたるための材料でもない、人の評価も受け付けないし、なんらかの数値にされるなんてもってのほか、冗談じゃあない。ふざけるなと言いたい。

 

そういう遊戯を楽しめる連中は、そういうところでやっていけばいい。なにも怒鳴り込んでいって否定するつもりもないし、こちらの拳を痛めてまで殴るような相手じゃない。はっきりいえばどうでもいい。ぼくにとってそんな「界隈」など、存在していないに等しい。

 

ぼくの網膜には、明確に、読んでほしい人の顔が浮かんでいる、

あの人、あの人、あの人…

あの人にならこっぴどく言われてもいい、そういう人さえある。(そういう人にかぎって軽々に批評などしないのだけれども)

あとは関係ない。あくまで最初の読者は自分だし、最後の批判者も自分だろう。

 

なんのために書くのかが根本からしてちがう。魂の蠕動によって書かざるをえず、生きるために、生きていくために書いているのと、評価や名声や「成功」のために書いているのとでは、まったく別の生き物とさえいえる。是非の話ではなく、ただ「ちがう」ということ、土俵が、まるでちがう。

他者に依った成功なんて退屈そうだとぼくは思うけれど、それを追い求める人がいることはわかる。なんか憧れちゃうのでしょう、有名になってちやほやされたいのでしょう、なんとなくわかるよ、ぼくは「ちがう」けれど。

見知らぬ人に作品を褒めてもらっても批評されてもなんでもない。ありがとう、と言ってすぐに忘れる。読んでほしい人に読んでもらえたらそれで充分、もうそれ以上はない、それがぼくの「成功」。

よい文章が一行書けた、それがぼくの「成功」。

 

そのちがいは文章に表れる。ジャンルの好き嫌いはあるだろうけど、そういう話でもない。「書くこと」に意味があるのであって、書き終えて付与された「点数」に意味があるのではない。他人の評価のために筆をまげて書いてなんの意味があるのか知らない、自分の書きたいようにしかぼくには書けない。他人の需要にあわせた文章を切り売りしたいなんて思わない。ただ自分の求めることばを見つけて刻んで残したい。

他人の評価など犬に食わせろ。いや、愛犬家なら犬にも食わすな、お腹をこわすといけないから。棄てちまえ、そんなもの。

 

簡単につくれる仲間は仲間じゃない。