木曜荘

ものかきの日記

自分

「自分」という言葉をあたりまえに使うけれど、ぼくは自分について実はよくわかっていない。自分というものについて考えると目の前がうっすら暗くなって、空が曇って、なんだか怠くなって、ペリペリと背中のほうからなにかが剥がれていく感覚に襲われて、気がつくと上から体を見おろしていて、あれ、どっちがぼくだろうってなって、その感じがあまり好きではないので、考えないようにしている。

自分なんてない、とか思ってることもあったし、自分とはなんだ、と思い詰めたこともあったけど、いまはあまり興味がない。自分を象るのは他人の目でいいし、ぼくにとっては作品があればそれでいい。作品はぼくの輪郭のようなものを、なんとなく、描くでもなく描いているような気がするので、こういうのを書く人間が自分という人間だという、それだけでもういいよね、充分じゃない、ってなる。

上腕や指や膝や前髪は、自分の目で見えるけど、目は目で見れない。鏡越しだったり、カメラ経由だったり。自分の座ったその場を見回すことはできるけれど、そこに自分の姿は半分も映っていない。人生はいつでも観客に過ぎない。別に演者になりたいわけじゃないし、演者だって舞台のうえから見る観客だし、ぼくは観客でかまわないのだけど。

作品は、ぼくが演者になる唯一のもののようで、この世でそれをすべて「読める」観客はおそらくぼくしかいないのではないかと思う。一人舞台、観客も一人、そんな感じ。自分の目で見ることのできない背中、作品を読むことでそれを見ることができる気がする。といって、それが見たくて書いているわけではなく、ただ書きたいために書くのだから、これはたまたま得た副産物のようなものだろう。でもそれを読んで、ああ、これを書いたのがぼくという「自分」なんだなぁ、と体感するのはほんと。

だからぼくの作品はたぶん自画像。

詩を絵具にして感情を風景画として描きたくて書いているのだけど、ぼくにとってはそれが自画像になるのかも。

何を見て、何を得て、何を聞いて、何をどう歌うのか。どうやって生きてきたのか、どうやって生きていくのか。そういうことを書いているのだから、そうなるのも当然なのかもしれない。いよいよぼくは「自分」について考える必要がなくなったらしい。

病気は病気、生業は生業、過去は過去、未来は知らない、自分は自分。

ぼくはぼく。ぼくの書くものはただ言葉。詩でもないし、小説でもなくていい。書きたいと思えるのはさいわい、なのでただ書く。本をつくる。それを地上においていく。誰かが読んでくれたらいいけど、読まれなくてもとくにかまわない。

書かれたものは、ただひとりに読まれればいい。