木曜荘

ものかきの日記

鎧とあそび

今日は昼からの仕事なので、朝から筆をとる。

朝食はバナナ、減量中なので基本的にずっと空腹でいるけれど、そのぶん減量食が美味いこと美味いこと。

 

書くことも読むことも食事に似ていて、バランスをとりながら、常にすこし空腹にしておくといいように思われる。読みすぎても書きすぎてもバランスは崩れる。読んで書いて、読んで書いてするのがいっとうよいようだ。

 

この頃ずっと減量食を食べているので、そのために毎日料理をしているけど、興味が深まっているのは料理ではなくてあくまで食事。食事の質をよくしていきたいので、そのためには自分で作るしかない。外食やコンビニ飯は大量の油を避けてとおれないから、だから自分でつくる。これは自分で読みたいものを自分で書くというぼくの書く意味と構造がおなじ。自分のいろんな側面が、みな同じ方向へむくことは心地いい。

 

安野モヨコさんの作品で「脂肪と言う名の服を着て」という作品があったけれど、この題名は秀逸だと思っていて、ほんと脂肪って服なんだよな。着込んでいくのは簡単で、いざ脱ごうとするととても大変という困った服だけど。

それを思うと、筋肉は鎧だなぁと思う。固くて身を守るし、脂肪より重いし。最低限の服に必要なぶんの鎧があるのがやはりのぞましい。ただ鎧もつけ過ぎればどんどん可動域がせばまるという弱点もある、肘や膝にある「すき」は必要な隙間であって、そこまで埋める必要はぼくにはない。

 

言葉もおなじかもしれない。つねに「あそび」が必要。想像力のはいる隙間、それが言葉の可動域を広げていく。言い切れば、断言すれば、しつこく描けば、説得力のある論理的なわかりやすい文章になるかもしれない、でもそのぶん想像力の遊ぶ隙間はどんどん失われていくのではないか。

論文や報告書などには不可欠なそれらの「文章力」が、そのまま表現としての文章において力を発揮するとは思えない。それでも文章の地力は養われる、という意見はよく聞くけど、この頃はそれすら疑問に思ってる。だって書きたい文章がわかってきたら、その地力を崩さずには得られないから。そうじゃないという作家はそれでいいのだろうけど。ぼく個人的にはそう思う。

 

だからぼくはいつでも余白を大切にしている。舌足らずな文章に見えるかもしれないけれど、それはもともと口下手のぼくには似合うし、自然なことなのだろうなと思うのだ。自分の言葉はいつもすこし足りない、という気付きからいまの文章になってきたのだと思う。だから、小説はこう、詩はこうでなけれないけない、なんていうのはぼくには関係ないし、大切な余白を無意味な飾りつけで埋めるつもりもない。

そもそも、ぼーーーーーっとほうけて生きてきたぼくだから、自己表現しようとすれば自然そうなるのだろうな。「精緻な心理描写」とかないんだよ、ぼーっとしてるんだから。といって細部をおろそかにしているわけではなく、その逆だと思ってる。

 

何が言いたいのかよくわからない日記になった。

まあ日記だしいいか。

仕事まで書きます。