木曜荘

ものかきの日記

2022/10/21

ブログ150日。まだ目標の半分もいっていない。一年間はあっという間に過ぎるという体感があるけれど、その毎日を書くとなると、こんなにもあるのかと驚く。これは時間というものに対する新しい視点で、それを感じられてよかった。残りの人生、ちゃんと生きればまだ結構あるかもよ。安心して書いて綴じて働け。

とはいえ、あと八ヶ月で四十歳になることは間違いない。不惑にたどり着きたい。孔子がなんだ、「誰の成功も参考にならねえ 今日も作業着に缶コーヒー片手」といったZORNのリリックのほうが格好いいぜ、とも思わなくもないけれど。儒教で叩き上げられたぼくにとって、やはり四十は不惑なのだ。

四十年間生きてきた自分の人生のひとつの過程でしかない、ただの点に過ぎないのかもしれないけれど、やはり「ちゃんと迎えたい」と思うのだ。文章に関しては「死ぬまで書いていく」と決めているし、そこに惑いは一切ない。本を作り続けるというのは、金銭面もおもえばろくにできないこともあるだろうけれど、書くことに金はかからない。ネットで発表すればタダだし(しないと思うけど)、なんとか発表もし続けたい。

しかし仕事、生活面ではまだまだ不惑に程遠い。植木屋をやめるかどうかはもう乗り越えた感じはするけれど、店をたたんで就職する覚悟はまだ整わないし、家のことも課題が多い。体型もすっかりおじさんになってきていて困っている。いろいろと削ぎ落としていきたいと思う(とくに脂肪、からだと、生活の脂肪)。

先日、友人と友川カズキの話をすこししたために、このごろすこし聴いている。『家出青年』がとくにあっているかな。あとは『桜の國の散る中を』とか。友川だったかな、だったと思うんだけれど、自分の楽曲で人を撃ちたいというか、死なせたい、とか言っていたような気がする。ぼくもそう思う。ぼくの文章で死なせたい。それは身体的な死ではもちろんなく、はっと驚いて感じて、それまでの自分が「死ぬ」ということなのだ。それができたら本望だとも思う。友川カズキの曲はほんとうにやさしくぶん殴ってくれて、目が覚める思いがするのだ。音楽家であり歌手でありながら、それ以前に彼は詩人だと思っているので、言葉の響きもほんとうによい。からだに馴染んでいる。

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現場は昨日と一緒。芝刈りに、壁面緑化の剪定、消毒など。終わるかどうかという微妙な仕事量だったが、なんとか午後四時前にはすべて済んだ。施設自体建て直しをしたばかりで、木々もすべて幼い。傷つけないようにおそるおそる作業するので大変だったが、育てばそうでもないだろうと思った。灌水のためのドリップホースが芝生にはり巡らされていたので、それでも時間がかかったのだろうな。最近の植栽の典型的なかたちではあった。気の合う、考え方の近い人と仕事するのはおもしろい。来週からはまたずっと一人で現場を回るので、あと一日、それを楽しもうと思っている。