木曜荘

ものかきの日記

2022/04/19

五時に起きるのが習慣になってきた。というか五時前に勝手に目が覚める。目覚ましより早く起きて、珈琲を飲みながらぼんやりするこの時間が今は気に入っている。

おかげで遠い現場の日に早く起きなくてはいけない、という面倒な感覚が消えた。近い現場、開始時間の遅い現場のときは、三時間、四時間と創作などにあてられるので、これはもう得した気分にさえなる。

 

昨日は松の根回しをした。そして今日は別の現場で松の伐採をする。かたや来年の移植に備える作業、かたやもうなくなってしまう作業で、いまの時代の松の存在というものを象徴しているなぁと感じる。

仕立てられた松の手入れは、他の樹木とくらべて時間がかかる。つまり費用もすこしかさばる。適当に切ってしまっているお宅もあるけど、きれいに保つためにはやはり植木屋を呼ぶ。どうしてもお金がかかる印象がぬぐえないのだ。やりかたひとつで費用はかわるだろうと思うけれど、そこまでわかっている方はすくない。

根回しという作業は、太い根を何本か切ってそこから「ひげ根」と呼ばれる「栄養を吸収できる根」の発生をうながすためと、移植の際の根鉢をすこしでもちいさくするために行う。大きな木であればやったほうがいい作業だけれど、これは省略してしまう場合も多い。移植の安全度はさがるけれど、費用も節約できるからだ。今回みたいに、しっかり根回しを行う例は、いまでは多くはないと感じている。金銭的にかなり余裕のある家だけだろう、こういう作業を行えるのは。

そもそも松を植えている庭がすくない、減っていっている。この数年だけでも、立派に仕立てられた松を何本伐採したかしれない。もったいないとは思うけれど、仕方ないとも思う。「一本百万円ほどの松が毎週のように売れた」という時代もあったと聞いた。いまでは新しく建てられた家に松が植わるなんていうことはありえないと言っていいくらいだし、そもそも庭のない家ばかりだ。

この頃は若い植木屋と一緒に仕事をすることが増えているが、多くの職人が「松はやったことがない」という。ぼくもそうだったのでよくわかる。個人宅のお庭を主な現場に選ばない限り、松とお目にかかることは多くない。毎年お金のかかる庭より、やはり駐車場のほうがいいのだろう。それでもみどりが好きな人は、プランターで楽しんだりしているし、庭というものはどんどんなくなっていくものかもしれない。

 

人間の根回しというものについても考えていた。

人間を支える根。それをあえて断ち切ることで、そこに吸収するための細い根をあらたに発生させることはできるだろうか。たとえば固定観念、おもいこみ、経験則、そういうものが自分をささえる根のひとつとして、しっかり地に食い込んでいるだろうことは容易に想像できる。それをあえて断ち切ること。ふだん避けているような場所へあえて行ってみたりするのもそうかもしれない。支持力をなくして倒木してしまってはしかたないので、それらはやはり樹木同様、むやみに切っていいものではないだろうけど、ときには思い切ってどこか切ってやるのもいいのかもしれない。うまく根がでるといい。

 

今日はゆっくりなので、仕事まで四時間ほどある。じっくり推敲していこう。