木曜荘

ものかきの日記

日記と歌

薔薇は咲いたか、と毎朝玄関のとびらを開ける楽しみ。開けてすぐのところにある鉢植えのミニバラ、蕾がみっつほころびかけている。ゆっくりでいい、きれいに咲くといい。

 

倦みはててつかれた頭をとりかえて軒先に干そう薔薇は咲いたか

 

Twitterのおともだちの影響で、短歌を遊びはじめた。以前、先生からも勧められたことがあったけれど、あのころはどうしても三十一文字にできなかった。昨日こころみてみたら、出来はどうあれ、いくつかできた。どういう変化があったのだろう。

最初につくったのは、このごろやっと答えが出つつある、「詩とはなにか」という自問への回答。あとは思いつくまま。

 

みちゆきにいくせいそうの荷をおろしわたくしはもう「詩」を書きませぬ

昼まえに仕事をおえて君子蘭きみの声音と香りをわすれ

「きみは詩人」「あなたは詩人なんかじゃない」どちらでもよい薔薇がもう咲く

 

 

あとは自分でもちと出来が悪いと思ったので、投稿はしなかったもの。

 

こどもらの遊ぶ声が窓のそとひとり爪とぐわれはおおかみ

ごがつ晴れしとどの汗とセメントと鏝を這わせる左官屋のうで

茉莉花のはなが落ちるかじきに夏ねこは毛を吐く蟻がでるでる

 

もしかしたらまた書くこともあるかもしれないと思い、とりあえずここに残しておく。

 

そういえば昨日はたしか寺山修司の命日。彼の短歌は多くのひとから秀でているとされているけど、ぼくはどれもそんなに好きではない。でもいくつか忘れがたいものもあるか。

ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし

寺山さんは嘘がうまいようで、いつでも何をいってるかさっぱりわからないのだけど、この歌はどうも本当くさいな、いややっぱり嘘なのかな、などと思う。それらの歌を映画にさしはさむやりかたは見事だったと思う。

嘘をしたじきにしないと本当を語ることができない人だったんじゃないだろうかとも思っている。そういう気持ちならわかる気がするけど、たぶんそういうものでもないのだろうね。人のことはよくわからない。

 

 

書きわすれ書き損じの道にひとりひろって歩く嘘ひとのもじ

子宝のめぐみをしらぬかわいい妻五月五日の朝がまぶしい

羽にみえ甲羅にもみえ眼にもみえじっとうごかぬ文机の石