木曜荘

ものかきの日記

2022/06/20

昨日は朝から調子がでなかった。めったにしない忘れ物もするなど、どうも注意力も散漫になっていたようだ。疲れがたまっているらしい。

今日は昨日でた大量の刈草を捨てにいって、作業着や道具など買うものを買えばあとは休みなので、今日のうちに気力を回復させたい。午後からは日本橋に遊びに行くし、なんとか充電できるといい。

 

昨日は政治についてすこし考えたのだけど、やはり疲れるし意味を感じない。声をあげなければなにも変わらないとはよく聞く言葉だけれど、声をあげてもなにかが変わるとは思えない。働かない蟻もいて、それらが得するというのがやはりこの社会の構造なのだと思うし、それをひっくり返すにはやはり一揆のようなものを起こすしかないと思う。庄屋の蔵を焼き討ちするようなつもりでなければ、なにも変えられないだろう。

変わるというのは、たとえば自分が政治に直接関与できるほどの地盤看板鞄を手に入れるということではないのか。そうでもなければ、変えられるものなんてないだろう。ただ、どうやら多くの人が、権力を手にすると「変わってしまう」らしい。選挙のたびにうんざりするほどそう感じてきた。

ぼくが社会というものに触れたときから、その感想はいまだに変わっていない。富めるものが強く、発言力をもち、政治に影響する。貧しいものは搾り取られながら必至に働くしかない。その発言に力などない。働いて収めるものを収めれば、手元にはなにも残らない、だからまた働く、ずっと貧しいままだ。一発逆転大儲けしていわゆる成功者をめざす成金志向のひともおおくいるけど、金銭的な成功というものにぼくは魅力をいっさい感じない。税金は増えるし、人との問題も増えるだろう。それなら貧しいままでいい、本が作れればそれでいいのだから。

どうぞ勝手にやってください、というのがぼくの政治との関わり方。はっきりいって、誰がやっても同じだと思っている。誰にも何にも期待などしていない。みんながみんな、国を食いものにしている。だからいつまでたっても「国」はよくならない。そもそも見ているものが違いすぎる。「国」というのは幻想にちかいと思っている。

ぼくは身近な環境をよくすることだけ心がけている。友人を愛して、先輩を敬って、家庭をととのえること、そして自分の志を遂げること。そこに国など関係ない。自分でやる。国家など必要と思っていない。と言うと、多方面からいろいろ反論のあるのもわかってるけど、その反論だってつまらない定型句に過ぎない、政治は大人の玩具なのだろう。やはりどうにも興味が持てない。発散することのできない薄ら寒い怒りの募るばかりだ。もうこんなこと考えるのはよそう、という結論に毎度たどりつく。

ただ思考の痕として、ここに残しておいた。つまらない文章にしかならないが。

 

そんなことより今日は『大血眼展』ですよ!あるのかないのかもわからない「国家」なんてものの文句を垂れるより、この国で出会った表現者たちの作品を見に行きませう。そこには感動があるし、出会いもあるから。楽しみだ。