木曜荘

ものかきの日記

ちがい

ぼくは「自分の言葉」というものを信じている。そうしたものがあるということを、信じている。そしてそれをあらわすために生きている。

世の中には本が、物語がたくさんあふれているけれど、「自分の言葉」で書かれていないものをぼくは好まない。借り物の言葉で書かれたものは、それがたとえ名作と言われていても、どんなに売れていても、ぼくは評価することができない。

だから自分が書くときも、借り物の言葉を使わない。読み直したりするときに、借り物が混ざっていると気づくときなどは、心底落胆するし、すぐに削除する。つまらないからだ。そんなものを書くために生まれてきたのじゃない。

「絵と違い、小説や詩歌というものは、読まなければわからない、絵は一瞬で心を奪うこともできるが、小説は最後まで読まなければわからない」…でも実は、それはとてもそれらしい言葉にも思えるけれど、本当はそうじゃない。小説や詩歌だって、一行読めばわかるということが多いのだ。がんばって最後まで読んでも、一行目にえた感想をこえることはそうあることでもない。だいたいが予想通りにおわる。

たとえばアニメなどの映像化を目的に書かれるものと、ぼくの書きたいものとでは、質がまったくちがう。どちらが良い悪いの話ではなく、本質がまったくちがうのだ。ストーリーだとか、プロットだとか言う。よく耳にする。それがどうしたと言うのがぼくの姿勢だし、そればかりを求めて言葉が深化していかないのは、本当につまらないことだと思っている。

出版社の賞レースなどにあわせて、傾向と対策を練って書く。そういうことが面白いと思う人達もいるわけだから、それらを否定するなんてことはできないけれど、ぼくにはできない。そんな退屈なことはできない。人より自分をうなずかせたい。自分を納得させるだけのものを書きたい。出版社などの評価はそこには要らない。身の回りのぼくが信頼する人たちからいただく感想のほうがはるかに重要だ、ぼくにとって。

…そんなことばかり言っているから、人の輪が広がらないのかもしれないけれど、「おつきあい」で読んでいただいて褒めてもらってもあまりうれしくないし、それはそれでいいと思っている。広げるより深めていきたい。

なにが言いたいかというと、つまりはぼくも彼ら彼女らも自分の書きたいものを書いているだけで、そこにちがいはない。でも書きたいものが彼岸と此岸ほど隔たっていて、決してまじわることがないということ。といってそれをくさする必要もないし、批評なんてする気もない。ただ遠いというだけのこと。

読まなくては好きかどうかわからないので、とりあえず読むということを定期的にやるのだけど、そのたびに痛感する。いまの時代にぼくはまったく求められていない。いや実際は、生まれる前の過去なんて知らないし、未来もとんとわからないし、「いま」を時代としてくくるなんてことが本当にできるかどうかもあやしいけれど、それでもそう感じる。「需要」という言い方をすれば、まったくないだろう。

それでもいくたりかの人は、次作を楽しみにしていると言ってくれる。だから書いていけるということもある。そこには需要という言葉は必要ない。期待にこたえるということでもない。ただぼくはぼくの書きたいように書き、その結果、次も読んでくれるか、そのまま離れていくか、それだけのことだと思う。

先生は言ってくれた。「読者は少なくてもふたりいる」と。「それを書くあなた自身と私とだ」と。これほどにありがたい言葉があるだろうか。ぼくはまずぼくという読者に届けるように、「自分の言葉」で語り続けることがなにより大事だし、やはりそれがすべてなのかもしれない。

ながながと書いてしまったけれど、以上が定期的に発するぼくの宿痾のようなもの。現代の小説や詩歌にあたらしくふれては、それらとの隔絶を感じ、すこし寂しい思いもしたりして、それ以上に落胆する。でも必ずここに戻ってくる。大好きな作家・作品は、先生や身の回りの人々もふくめてかわらず大好きだし、なんてすてきな文章!と思う。そして自分も自分の言葉でもって、そうした作品を書いていきたいと、決意をあらためてこの手ににぎる。それだけのことなのだけど、たまにこうして吐き出さないといけない。

これは日記なのだからいいよね、という甘えのもとに安心して書いちゃう。でもこれは誰も何も否定するものではない。ただ違いを感じるというだけの話で、その違いのなかにはこうした大切なものがたくさん含まれている、というお話でした。