木曜荘

ものかきの日記

生活

通院の日は、なにがあったわけでもなく、ふさぎこむことが多いけれど、今日は感情の動きはとくになかった。

習慣の改善が、生活の隅々までいきわたっているのを感じる。 いずれまた鬱がきて、積み上げたすべてをひっくりかえされることもあるかもしれないけれど、苦心して築いた土台までは破壊できないらしいことは、経験上知っている。

いまはせっせと土台を強化していくときなのだろう。

 

意識が外へ、すこしずつ外へ向かっているのがわかる。去年はずっと内を向いていた気がする。それが悪いことではない。ただ向きがちがうだけ。いろんな人と話して、自分の知らないものを吸収したい、というような欲が湧いている。

生活習慣というものは、やはり底でぜんぶ繋がっていると感じる。ひとつがうまく転がれば、噛み合う歯車がそれぞれ動きだし、全体の動きを大きく変えてしまう仕組みがあるのではないかしら。

今回のきっかけは食事。食事を選ぶことは、調理法を選ぶこと。それから運動を選ぶこと。運動を選ぶということは、それを邪魔する反対の習慣を排除すること。何を摂り、何を捨てるか。音楽みたいだ。ドの音を鳴らすには、他の音を黙らせる必要がある。そして選んだ音だけを重ねたり、ずらしたり、鳴らし方を変えてみたりする。

生活はひとつの音楽かもしれない。体は楽器かな。演奏者はこころ、脳、精神?ぼく?そんな感じかな…

 

かつてのTwitterへの依存を解消できたのは、いっとき他の楽しみに置き換えただけ。いわゆるソシャゲ、三国志が好きなので、そのゲームをやっているうちに、Twitterをやめられた。(いまは読む専門でTwitterといい距離で付き合えているけれど、以前はちがった)今度はそのゲームをやめようと思っている。置き換えるのではなく、本来使いたいと思っているものに、ちゃんと使える時間を返してやりたい。読書、執筆、運動なんかに。

ひまつぶしも必要だし、ときに無心に遊ぶことはとてもいいことだと思う。でも、なんでも摂り過ぎはよくない気がする。なんでも夢中になるたちなので、ゲームだって真剣。でもそろそろいいかな。時間を返してあげよう、いまの自分にならできる気がする。スマホから離れて、本に戻ろう。いやもちろん、スマホを否定するわけではないけれども。自分の好きなものを、その時間をこそ大切にしよう。

 

ぼくにとって、大切なことは、創作をつづけること、形にすること、好きな作品を味わうこと。それから、ひとりで散歩して空をさがしたり、虫をおっかけたり、草の上で寝たり、作家さんの話を聞いたり、仲間と語らったり、…そういう時間は、スマホからは得られない。画面のなかに、似たようなものはたくさんあるけれど、それは本物じゃない。ネットの繋がりのなかには大切にしているものもある、それは本物だと思う、文通相手みたいに思っている。

そういうふうに、自分にあった使い方を選ぶ、スマホに使われるような付き合いは捨てる。そうすれば、この生活の歯車のひとつとして、スマホはとっても有意義な存在になるだろう。

植木屋としてのぼくの信条に「仕事は道具、道具は使い方」というのがあるのだけれど、これは生活全般に敷衍できるものかもしれない。道具に使われず、道具を侮らず、蔑ろにせず、自分の使いたいように使いこなすこと。

体も、言ってみれば人生をゆくための道具のひとつ。替えのきかない大切な道具。磨いていこう。次の鬱がくるまでに、どれだけすすめられるかわからないけれど、今は復讐のときを楽しみに思うことさえできる。いつかしっかりと迎え撃ちたいものだ。そのための今このとき。歯車をひとつずつ磨いていきたい。