木曜荘

ものかきの日記

2022/06/18

昨日はすこし早出で、現場は横浜。運転は行きも帰りも後輩君がしてくれた。ぼくは首都高が苦手なのでそれに甘えた。

そして今日も横浜へ。祖母の一周忌。従兄が急逝してからまだそう日も経っていないので、祖母の亡くなったのがもっと昔のことのようにも思う。賑やかな親族、結婚式や出産の祝がつづいたこの数年だったけど、今年は喪服での集まりばかりだ。時間の経過を感じてしまう。これから一人ずつ亡くなっていくのを見送っていかなければならないのか。死というものがどんどん身近に迫ってきている感覚を否めない。やれやれだ。いつくるかわからない人生の締切を意識して生きている。

馬鹿なことを言うな、お前はまだ若いじゃないか、とは、誰も言えなくなった。従兄の早すぎる死のためだ。ぼくだって、明日はわからない。本をつくらなくては。

 

ぼくは遊びをやらない。酒は誘われなければ飲まないし、誘われても相手次第では飲まない。晩酌もしない。酒の失敗が過去にいくつかあるので、自分に禁じている。

賭博もやらない。儲かるのはつねに主催側だと思っているのでばからしくてやるきにならない。人生で一度きり、先輩に誘われてスロットを小一時間やったばかりだ。おもしろくもなんともなかった。金は働いて稼ぐに限る。

女性とお酒を飲むための店にも行ったことはないし、体を洗ってもらったこともない。これまでに一度として行きたいと思ったこともないし、今後もまずありえないと思っている。

高級車に乗りたいとは一度も思ったことがないし、服飾、装飾品にも若いころほどには興味がない。家は住めればいいし、家具調度品にもこだわりはない。美食というものにも関心がなく、一日肉体労働すればなんであれ美味くなると思っている。

 

ぼくがお金を使うのはただ本ばかりだ。だから一年に一冊、十万ほどかかってもいいじゃないか、と思うようになってきた。月に一万円遊んだと思えば、むしろ安いほうじゃないのかとさえ感じるようになってきた。

まわりにいる若い衆を見ているとそう思うのだ。貧しいとはいえ、うちには子供もいないし、贅沢も遊びもしないので、支出はよそより少ないはずだ。そうしてちまちまと貯めては一冊本をつくる、それを毎年くりかえしていってもバチはあたらないのではないだろうか。

先妻と暮らしている娘ももう高校生、二十歳までの約束で毎月ふりこんでいる養育費もあと数年で終わる。時間が経つのはほんとうにはやい。養育費分は妻にまわしてあげられるようになるので、それは嬉しい。そうすればさらに、もうすこしだけ、本の費用が楽になる(はずだ)し、ぼくの人生唯一の道楽といっていいこの本づくり、生涯のすべてをかけたいとさえ思う。

 

肝心なのはその「中身」である文章だとしても、最近はこうした「外側」のこともよく考える。好きな本の形はもうあるていど決まっているし、自身で理解もしてきたので、あとはそれを何作つくれるか、ということばかり考えている。

できれば詞華集を毎年つくりたい。今回参加してくれた方には、次回以降も参加をお願いしたいし、新たに誘いたい方も数名いる。そうしたなかで自分だけの書き溜めていったものを、また別の一冊に綴じたいというきもちもある。

なので、それがぼくの「生活」になるのだろうと思う。その生活のために働くのだ。食べて暮らして、あまりで本をつくる、そこまでがぼくの生活なのだ。

本をつくるということが、これほどまでにおもしろいもの、楽しいことだとは思わなかった。どぶに棄ててきた過去のお金を悔しく思い出したりもするが、それよりこれから稼いでいくために前をみるほうがいい。仕事も生活もすべて本のため、そう思うとなんだか生きていけるような気がしている。不思議なものだ、と思う。