木曜荘

ものかきの日記

三十九歳というのはよい歳だ。自分の来し方に行く末に思いを馳せるのによい歳だ。

三十代と二十代後半、ぼくはさんざ生活と格闘をした。病と奮闘した。そうしてなにを得たかというと、なにもない、強いて言うなら、いまここにあるぼくだ。これを得た。そしてこれだけをもって、四十代へ入ろうと思っている。他に荷物はない。すべてよそへ置いてきた。

 

祖母の一周忌。古希を迎えた叔母、その孫はまだひとつかふたつ、歳の近いはとこと遊んでいる、それはまだ人語ではない、鳥の声に似ている。麦酒を手酌でやりながら、ぼんやり眺めまわす。若いのと老いたのとがごっちゃになって座っている、どれも数十年前にみた景色にうりふたつと気づく、あのころの叔父の役目をぼくがいまに演じている、それは笑ってしまうような血の物語、ぐるぐるまわっていくのだこうして命は。渦まくように。

父が死に、従兄が死に、ぼくは酒盃をかわす相手を失った。甥があと数年もすればその相手を演じてくれるだろうか、かつてのぼくがそうしたみたいに。手から手へ、盃から盃へ、なにかが伝わっていると感じるけれど、それがなにかはわからない。時間はゆっくりと流れているはずなのに、なにもそこに留められはしない、すべてがすべて流れていく。

祖母の思い出は、自分の思い出、若い頃の祖母を思い出せば、そのそばには幼いぼくがいる、叔父も若かった、父も若かった、今にして思えば、母などまだむすめだった、思い出がぐるぐるとまわる、子どもらは鳥の声できゃっきゃと騒ぐ、ぼくは十五歳のこころを持て余し気味に、三十九年間をふりかえろうとした、が、すぐによした。今をみればそれで足りた。今ここにある自分が三十九年間のすべてなのだ。過去などない。

コップに麦酒をそそぐ、琥珀色の渦がまく、ちいさな泡粒が明滅する、渦はながいことまいていたようにも思えたが、気づけば琥珀は凪、ごくちいさな泡を孕みながら、表はなにごともなかったようにしんとしている。