木曜荘

ものかきの日記

2022/06/11

昨日は見積のために区外区内をぐるぐると走りまわった。リクライニングもない軽トラで一日運転し続けるのは、かなり体に負担がかかる。運動の疲れとはまったくちがう種類の疲れで、苦手だ。激しい運動で疲れるのはむしろ爽快ささえあるが、見積は外でする事務作業という感がある。帰って十通ほどの見積書をこしらえ、ポストに出す瞬間には、開放感をおぼえるが。

 

その足で図書館へ行く。予約していた本を受け取る。小栗風葉小杉天外、後藤宙外を一冊にまとめた本。以前にも借りたことがあるのだけど、そのときは時間もなく読みきれなかったので、改めて借りてきた。

読みながら日本語の奥行き、裾野の広さを思う。日本語というのは本当に妙で、奥が深い。四十年、日本人だけをやってきたにも関わらず、まだまだ知らない言葉のほうが多いのでなかろうかとさえ思う。これらの語彙は、どこで消失してしまったのだろうか、と考えると残念でならない。いったいどこで、いつ、消えていってしまうのだろう。

ぼくは最近の(流通している)作品をほとんど読まないのだけど、たまに勉強のつもりでちらと読んだりする。どの小説も、使われる言葉がほんとうにつまらない。肌に合わない。物語はなるほど、よく練られていておもしろいのかもしれない、でもぼくは小説や随筆に、物語のおもしろさを求めはいない。はっとするひとつの文章、美しい言葉を求めている。それが見当たらないという作品が多いのだ。

昨日読んだ小杉天外の作品には、目と口を開いて、一瞬硬直させられるような言葉があり、ぐさりと刺さった。その瞬間の快さというものが、ぼくの思う読書の醍醐味なのだ。小栗風葉にしてもそうだ。後藤宙外はまだ読んでいないが、この二人と並べられているので、期待はしている。

それらに加えて、田山花袋徳田秋声泉鏡花、やはりこのあたりをふらふらと読んで歩くのがぼくには一番心地よい。文学への入口をつくってくれたのは三島、太宰、坂口、谷崎、川端などの作品だったので、いまだにそれらの作品には思い入れの残るけれど、やはり読んでいて心地よい作品というのは変わってきている。考えてみれば当たり前で、いつまでも入口に立っていておもしろいわけなどない。自分の好きな道を歩いていくのが当然のなりゆきと思われる。

 

日本語をしっかり学ぼうという思いが年々強くなってきている。カタカナの日本語というものもあるけれど、ぼくはあまり好きじゃない。多くの人に通じて便利だし、曖昧な表現をするにはもってこいかもしれない。でもなるべく使いたくない。同じように、いまの時代の流行語もなるべく使いたくない。軽薄に感じる言葉が多いから。

『楠』『欅』も、できれば全編とおして日本語だけで書きたかったが、たとえばエンジンはやはりエンジンであって、それを無理に原動機とするのもくだらなく思え、避けられないものは無理に避けずに使った。ノートやペンもそうだ。帳面や筆と言ってはおかしな話というか、かえって不自然になるので。

そういった場面でも、しっかりとした日本語の知識があれば、無理なく外来語を避けて好きなように書けたのかもしれない。つまり勉強がたりない。

 

あとは装幀についても、色々と学んでいきたい。この頃の本は表紙のデザインに随分力を注いでいるように思う。中身がないからだろうか。まるで商品の「パッケージ」のようだ。表紙、装幀の美しさと、商品的なパッケージとは違うと思っている。美しいものは美しいし、それは作品の一部だと思う。すばらしい本はたくさんある。でも同じくらい、そうでないものも多い。不満だ。文芸は商品をつくるためにあるのだろうか、ぼくはちがうと思っている。文芸は文の芸術であって、消費されるための「売れる」商品をつくるものではない、と思う。とそんなことをこんなところでひとりぼやいていたって、なんの意味もないのだけれど。いよいよ時代と歩調が、向かう先が合わなくなっていってるなと思って、ぼやいてみた。もともと合ってはいないのだけども。