木曜荘

ものかきの日記

報せ

 今朝起きると、従兄急逝の訃報がまず目にとびこんできた。病気を患っていたわけでもなく、事故などでもない。死因はまだ不明とのことだけれど、あまりに唐突にやってきた死の報せに、ぼくはただ狼狽えることしかできなかった。

 ぼくの一族は女系で、たくさんいる従兄弟のなかでも男性はぼくとその従兄だけだった。幼い頃から実の兄のようにおもってきた。歳がいくにつれて、一年に一度、冠婚葬祭で会うか会わないか程度の仲ではあったけれど、おもいかえせばあまりに多くの思い出のあることに気づかされ、朝から涙をこぼした。

 

 死はいつ訪れるとも予告せずにふらっとやってきては、人を拉し去ってしまう。そう考えればおそろしくもあるけれど、ぼくはどちらかというと、生の中に死の蕾がすでにしてあると考えている。事故というものもあるし、それがいつ芽生えるのかはやはり誰にも、いつでも、わからないことには違いがないけれど。

 死を思う。そこに生きている実感を確かめる。従兄の死が、ぼくに生の手触りを与える。そう感じた。残されたものは、生きていくしかないのだ。

 

 

 鬱屈として過ごすこともできたけれど、今日は蝶を見に足立生物園まで出かける予定だったので、妻とも話し合って、気分転換のためにも行ってみようという気になれたのは、対象が蝶だったからなのかもしれない。蝶は霊魂を象徴するという話を聞いたこともあったし、案外そういった「おはなし」のなかに、今日の救いがあったようにも思われる。

 日曜日ということもあり、こどもを中心に園内はにぎやかだった。誰も彼もが生きていた。昨日、ぼくが豪雨のなかを働いているうちに、ぽっくり逝ってしまった従兄の霊魂が、もしそんなものがあるのだとしたら、蝶のかたちをしていれば嬉しい、と思った。

 ひらひら舞い上がっては、ふわりと降りる蝶。花蜜を吸う蝶。あちらにもこちらにも。これらがすべて、ひとの霊魂を託されているという発想は、いかにも遊戯的でおもしろく、またどこかさみしく、滑稽でもあると思った。蝶は蝶でしかないと感じた。

 それはこの世のもののなかでもひときわ美しい、ひとつの生き物。生殖に特化されたそのからだ、舞うのも、吸うのも、生きるためというより「のこすため」の機能。ひとつの無駄もない。それがひらひら目の前を舞うのだから、美しくないわけがない。

 人間の生はそうもいかない。ぼくにはあまりにも無駄がありすぎる。ほとんど無駄でできているといってもまったく言い過ぎにはならないだろう。ひとつずつ、身を軽くしていこう、そう感じた。やがて青空にふわりと旅立つように、この体を離れる日まで。

 

 

 

 

 

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