木曜荘

ものかきの日記

2022/05/20

昨日は納骨ポットを据え終わり、区画を囲うための石材を小運搬した。これがまたいちいち重いのだった。現場は丘に建てられた寺で、坂道の傾斜もなかなかのもの。そこをひたすら蟻のように行き来して、材料をひとつずつ運んでいった。

蟻はみずからの体より大きいものを運んでいるよな、と思いつつ頑張った。うーんと力を込めっぱなしでは持ち上がらず、ふっと息をぬいたほうが、重いものは持ち上げやすいのだと気づく。何年やっていても体の使い方の気づきというものはまだまだあるようだ。それはたのしくもある。

減量中ではあるのだけれど、昨日はさすがにいろいろと食べた。体が欲しているのがわかったので逆らわなかった。腕が焼けてひりひりと痛い。季節を感じる痛みだ。悪くはない。蟻のようにまっ黒くなるまでしっかり働いて、はやく本をつくりたい。作業のつらいときは、念仏のようにそればかりを口の中で唱えている。

自ら書いた作品のなかの言葉を、なぞりながら仕事をしている。過去にあったことばかりを書いているのではないな、と感じた。それはこれから先に起こることも書かれてあったのだ。幸之介も凜も、昔から知っている友人のように思っている。今日もどこかの庭で、それぞれ働いているのだろうと思えば、自分も頑張ろうと感じるのだった。

 

資金の壁はなかなか高いけれど、そろそろと「蝶」の準備をはじめた。自分の作品を進めはじめた。というか書きたくてしかたないので書いているだけだけれど。あいかわらず物語もなにもないものになりそうだけど、それが書きたいのだから仕方ない。

ぼくが書きたいものは場面だったりするのかもしれない。場面から場面への展開を書きたいのではなく、場面そのもの。読みたいもの、読んで感動するようなものも、そういうものが多いように思う。めまぐるしく進行してゆく長編小説だってたのしく読めるけれど、なんというか、その展開だけだとぼくにはおもしろくないのだった。読んでのち、こころに残るのはたいていひとつの場面で、それは物語の進行に必ずしも要るようなものとは限らない。なんかこの場面すきだな、とこうなることが多く、自分もそうしたなんかいいな、を書けたらと思う。

 

今日も暑くなるようなので、お弁当の梅干しを二粒に増やそうかな。すっぱいのはそんなに好きじゃないけれど、夏場は梅干しがないと頑張れない気がしている。昨日も昼はまったく食欲がなく、まず梅干しを口に含むことで、なんとかお米を食べる気になった。梅干しは偉大。昼は冷たい麺などが欲しくなるけれど、これも節約の一環なのでしばらく続ける。

一日の、生活のすべてがいまは一冊の本に向けられている。これはとても望ましい状態。鬱も躁も、いまのところ大人しくしているようにみえる。いまが好機なので、ひとつずつ着実に進めていきたいと思っている。

ただあいかわらず詞華集の参加のお願いはできずにいる。作家さんそれぞれが本当にみな大変そうで、なかなか声をかけられない。ぼくの性格というのもあるけども。でもその壁を超える日がくるのは今からとてもたのしみにはおもっている。