木曜荘

ものかきの日記

2022/07/03 校了

暑すぎる一週間を終えた。その日一日を過ごすことだけに集中する日々だった。金曜にはすこし熱中症にもなりかけたが、なんとか無事にすんだ。夜、いっぱいのアブサンを飲んで、疲れ切った頭で最後の校正をおえた。

「直すべき」ところなどというものは、読むほどに際限なく出てくる。本当はこれを本にしてしまうことが怖い。残るからだ。でも、残すために書いてきたのだ。これでいいことにする。直すべきところがあまた出てくるというのは、直すべきところがないのと同じだろう。

誤字脱字は見つけられなかった。もう何十回と読み直してきているのだから、あったとしたってぼくには見つけられない。もしぼくに見つけることができるとしたら、それは「本になったあと」だ。それまで客観視することなど、本当はできはしないのだろうと思う。

いよいよ手放すときがきたのだと感じる。今日、印刷屋さんに連絡すれば、それが刷られる。いちおうの到着点であり、そしてまた次への出発点だ。

 

こうして書き続けて、本にし続けていくのだろうと感じる。それ以外に生きる意味などぼくにはない。ただ運良く今日も生きているので今日も書くのだ。明日生きていれば、やはり明日も書くのだ。

それだけがぼくの生きる意味だし、理由だし、あとに価値となるものだと思っている。ぼく自身には価値なんてまったくないけれど、ぼくが書いたものが残って、いつか誰かが読むことがあれば、それは価値だと考えている。そのとき生まれる読後の感想などぼくの知ったことじゃない。なんとでも思えばいいし、なんにも思わなくたっていい。誰かが読む、ということに価値があると信じている。

生きているあいだの「評価」も、やはりぼくには関係ない。いいねの数も、リプの数も意味はない。誰も読まなくたっていい、なんの感想も貰えなくてもいい。書くことに意味があるし、それを形にすることに意味があるのだ。

生きて、何かを感じて、それをわざわざ言葉におきかえる。どうしてこんなことをしているのだろうかと疑問におもうことは多くある。意味なんてほんとうは要らないんだけど、ときにそうした疑問が浮かび上がってくる。うるさいといって黙らせることもできるし、気づかなかったふりもできるし、とらわれてうじうじ悩むこともできる。でも結果、「意味なんてないな」というところに辿りつくことが多い。

呼吸が体に必要なように、書くことがぼくには必要で、それがなければとっくに死んでいた。そうなれば出会えなかった人たち、経験たち、景色たちがあり、それらと出会うこと、交わることが、生きている感覚につながるのだから、書くことは呼吸にも似た生命装置なのだと思うのだ。ごく自然に。あたりまえに。呼吸するように感じ取って、深呼吸するようにものを書くのだろう。

そういったもののくりかえし、おりかさなったものが、この一束の紙片であり、それが本になるのだ。物語などないし、あたらしい思想などもない。ただぼくの日々の呼吸が記録されているばかりだ。

 

今日からぼくは次の本について考える。『欅』については考えることはなくなるだろう。しばらくは読み返すこともしないと思う。そういう本なのだ、ぼくにとって。次へ進むための、踏み石のようなものだったのだ。書き終えること、そして本にするということが、この作品とぼくの関係のすべてだったんじゃないかとも思う。書ききるということがだ。諦めないということがだ。そして結果その姿がどんなものであれ、形にするということが。そこに意味があったのだろう。そう思いたいような気がしている。

これから書くものを思う。書いていくのだろうと思う。前作を裏切るようなものも書くだろう。それもあたりまえ。ぼくはどこへかわからないけれど、すすんでいるから。景色は刻々と姿をかえているから。そうして書いて生きていくのだろう。

いいじゃないか。そういう生涯でも。いまはそう思っている。