木曜荘

ものかきの日記

2022/08/23

ぼくのことを「先輩」というようなものと思い込んでしまっている可愛そうな男がいる。ぼくはぼくのどの側面をもってしても、彼の先輩などではない。たまたま数年早く生まれたことと、たまたま植木屋の経歴が少し彼より長いだけで、「先輩」と思われるような人間ではない。

その彼がことあるごとに言う、ひとつの美徳みたようなものがある。「仕事を選ばない」ということだ。彼はそれを実行している。素晴らしいことと思う。若い頃のぼくならば、諸手をあげて賛成したことだろうし、今のぼくもやはりそれを認めて、すばらしいと思うと伝えている。けれどそれはぼくの美徳からはひどく離れている。

ぼくは仕事を選ぶ。やりたくないことはやらないで済むように働きかける。残り時間の少ないこの人生で、いやなことを我慢し続ける働き方はもうしたくないのだ。

昨日は朝から顧客ともめた。三年間、施主の提示したひとつの方向にむけて剪定し整姿してきた楓を、思いつきから大胆に切ってしまうことになった。そこまではいい、庭の木は施主の持ち物であるという誤解がまかりとおっている以上、それは仕方ない。けれどそれはこの三年間、安い料金でやってきて、今年からやっと利益がでるような現場であれば、話は別だ。ぼくはぼくの利益を守るために戦わなければならなかった。追加料金はいやだから、じゃあ「そちらのいいように」やってくれと言われて、ぼくはその瞬間、この人は何をいっているんだろう、もうこの人とは働きたくないと思った。

仕事を丁寧にこなして、三年前にくらべて実に美しくなった楓に別れを告げた。書類にサインをいただくと、ぼくは施主に、もうぼくはここには来ませんので、と言った。施主はその言葉を理解するのに時間がかかっていた。

なぜ、こんな簡単なことがわからないのだろう。金を貰えればなんでもするとでも思っているのだろうか。たかだか一件の現場、たかだか一万と数千円の現場、金は喉から手が出るほどほしいけれど、それより大事なものだってある。

「職人としての矜持」などぼくにはない。そもそも職人ではない。作家だ。だから仕事は選ぶ。いやな人とは働かないし、できないことは無理にしない。ぼくの生き方を支持しているのは仕事ではなく、文学だ。ぼくが求めているものはそれだ。

だから「先輩」でもなんでもないのだよ、ぼくは。

しかし人に対して怒るということは、ほんとうにくたびれる。その後も半日は胸がむかむかしていた。怒りを発してしまった自分に対して、むかむかしていたのだ。

その後、たまたまのことだけど、手伝いに行っている会社の社長とも、仕事の線引をする必要が生じた。ここまではやるけれど、これこれの仕事はしない、そのように使ってほしい、というような旨を告げた。これは自分の限界をさらすことであり、恥ずかしいことでもある、考えようによっては。

でもぼくは植木屋もやめようかといま真剣に悩んでいるほど、この職に向いていないと感じている。おまけに加齢によって、できることは減っていくだろうという予感がある。まだ実感はしていないけれど。高所恐怖症は「まだ」治らないし、高速道路もいまだに忌避している。仕事を広げるには、克服しなければならないことは実に多い。でもそれらが「治る」ことはあるのだろうか、ぼくはそれを求めていないのに。

怖いものは怖いし、いやなものはいやだ。できることだけめいっぱいやるから、それでどうにか食わせてくれよ、社会。

なんだか、まとまりのまったくない文章になったな。いつもそうかも知れないが、輪をかけてひどい気がする。でもこれは吐いたままに残しておこうと思う。いつかきっと読み返すと思うから。

ろくでもない一日だったということはまちがいない。