木曜荘

ものかきの日記

2022/09/30

今日は通院のため、仕事はお休み。

いつもどおりの時間に目覚める。本を読んだりして朝の時間を待った。

日暮里、池袋を経由して病院へ。一・二ヶ月に一度の経路。

人間失格』の終着地点にもなった病院だけど、ぼくにとっては出発の地でもある。人間を失格してさえ、その続きが待っているのだ、生きている限り。太宰のぬるま湯のような文章を思い出そうとするが、とくに思い出せずに終わった。もう興味がないのだろう。

父だったか、「太宰は麻疹のようなもので若者はよく罹る」と言っていたが、治ってしまえば傷跡さえ残さないものだろうか。たぶんどこかにあるだろうと思われたが、探して見る気にもならないのだった。

この数週間、うんうん悩んでいたことについて、決着がつきそうな気がしている。朝、通院の支度をしながらふときっかけを掴み、電車にゆられ、待合室で座りながらそれを確かめ、薬の待ち時間にブランチをとりながらまた再確認した。

朝、手製本についての本を買った。二千円という数字が、このときだけなぜか安く感じられた。ぼくは履くわらじを一足増やすことになりそうだ。植木屋、執筆、それから製本。植木屋は体がうごくあいだ、あるいは仕事の完全になくなるまで続ける生業として、執筆はぼくの生きる理由として、死ぬまで、そして製本。

それはこれからの余暇(などと言ってられない。時間は作ろうとしなければうまれない)をどれだけ割けるのかわからないけれど、まずは独学で学んで、じっさいに作ってみようと思っている。手始めの目標として、既刊『楠』『欅』を一冊に綴じることができるかどうか、やってみたいと思っている。

こういう話をすると多趣味ですね、と言われることがあるけど、これがけっこう困るのだ。趣味でやっていない。生きる理由なんだ、そう思うけどそうは言わない、たいていの場合、笑ってごまかす。趣味というのはぼくの場合ウクレレやら篠笛やらの楽器とか、散歩とか、そういうものだけど、ぜんぜん違うのだけど、一緒に見えるらしい。まあ、どうでもいいのだけどね。楽しいだけのものが趣味だと思っている。いや、本当に突き詰めれば趣味というのもおそろしい底なし沼のようなものだとは思うけれど、それは今度書いてみようか。まわりにその手の玄人が多すぎる。ぼくなんてほんとひよっこだ。

話がそれたけど、今朝感じたその手触りは今も持続している。植木屋として生きていくことに関しては、もう諦めたほうがいいようだ。そんな言い方しなくても、と自身でも思うが、諦めるというのはひとつの大事なこころの所作だと思うので、それでいい。ああ、おれはこの先も、植木屋としてやっていくのだな、と諦めてしまえば悩みは消える。あとはその労働のすきまをぬって、自分に何がなせるかだ。そこに集中できる。

ぼくには泥汗まみれの作業服が似合っている。そういうことなんだろう。

ずいぶんながいこと転がり続けていた石が、いまやっとすこし落ち着いたのを感じる。こころのくぼみにすっと収まったようだ。そこにいろ。もう動くな。